日本の教育制度

私はごくごく普通の教育課程を修了し、ごくごく一般的な企業に入社して日々都内の満員電車に通勤ラッシュ時間帯のど真ん中を突っ込んで通勤している。

そんな私が今イメージしている小中高での教育は、90%くらいがインプットで残りの10%に満たないくらいの期間でアウトプットに集中する、いわゆる定期テストのようなものだ。

よく子供の頃にテレビや周りの大人が言っていたことを思い出す。

「子供の頃に習ったことが生きたことあるかって?少ないどころかないんじゃない〜?笑」

仮に今自分が子供を前にしたら絶対に言いたくない言葉だ。今思い出すだけで虫唾が走るワードに感じる。

と言うのも、最近ブログを書き始めたことにつながる。

日本の教育制度はとことん社会に対する実用性、加えて大学以降での必要な研究に対する素養を教育する場になっていないと思うからだ。

簡単に言うと、「アウトプットとフィードバック」だ。

よくある中学高校での定期テスト。記述式も中にはあるが、答えのみを回答欄に記入するテストが大半だったと思う。しかも、わずかな時間で。小さい頃から俗に言う”理系”の生徒だったので、数学が好きで、よく仲良い友達と問題を解くのを競い合っていた。テストとなると、その様子はないし、成績が親の機嫌を左右する子供にとって重要な数少ないチャンスだったので、必死になって解き進めていたが、数学は特に証明問題が含まれるテストに関して時間があっという間に感じた。単なる計算問題ばかりのテストならば、いかに反射速度を速めるために脳内処理速度を上げるかが重要だが、証明問題となると話は別だ。目の前に与えられた証明すべき目的を理解し、目の前にある図形や問いかけに対しての性質を知ることから始まる。これは決して簡単なものではない。見直す時間など当然なく、試験時間が終わる。

数日した後の授業で自分の回答した答案が返される。もちろん、○か✔︎と結果的な点数のみだけつけられて返される。

確かに、人クラス40人以上の生徒の答案を一度に見なければいけない教師の事を思えば、そんな簡単な作業ではない。場合によっては残業もやむを得ないだろう。

だが、生徒にとっては○ならまだしも、✔︎だけの答案など、なぜ間違ったかのフィードバックがないまま終わってしまう。場合によってはそれが大学の入試問題に反映されたら致命的だ。

幸い、私は教師と仲がよかったため、すぐに授業後に聞きに言ったことが何度もあった。その甲斐あってか、数学は良い成績が続き、今でも理屈っぽい性格が自分の一つの看板となっている。

さて、このようなエピソードは今、社会人になっている我々には全くのない話だろうか?私はそうとは思わない。それどころか仕事においては、考えて、場合によってはプレゼンなどを重要なお客様や怖い上司、大勢の前で行う必要があるのではないだろうか。その際は、定時を超えみんなとの楽しい飲み会も時には断りつつ、ドラマのような仲間と一緒に切磋琢磨してプレゼンを作成するなどと言う甘いストーリはなく、黙々と一人で作業することが多いのではないだろうか。

そんな時、私は時々、うまく資料をまとめられない時こう思う。「あー、これならただただ授業を受けてた方が楽だったわ。」と。

まさに、アウトプットは大変だと思う。アウトプットの前には必ず資料に使う情報をインプットする必要があり、インプットだけでなく、必要な情報を取捨選択しながら、つなぎ合わせて相手に理解できるような表現へと置き換えていく。これだけの長い過程に比べたら、インプットどころか場合によっては聞いているだけでいい授業なんか簡単だ。(興味ない内容の場合は聴くことが辛い場合もあるかとは思うが…)

そんな中、生徒の模範になるべき教師同士がいじめ。。決して教師たちが100%悪いわけではないと思う。そのように教育した、親、環境、文化に人間は依存する。

だからこそ、日本の教育制度について、教師の残業時間対策と同等に生徒への主体的アウトプットの機会を作るべきだと私は思う。そして大変な壁が目の前に立ちはだかった時、子供たちは仲間とともに超える教訓も同時に得られるはずだろう。

そんな私は、過去の分を取り返すべく、ブログを出発点としてこれからもアウトプットを続けられるようインプットも励んで行こうと思う。

ぜひ、皆さんからも私へのアウトプット(感想、ご意見等)をお待ちしています。


11−11−2019

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