『パニック障害になった話(3)』〜心ない言葉の応酬〜
※この記事にはパニック障害に関する記述、発作に対する表現が含まれます。フラッシュバックにお気をつけて、お読み下さい。
前回の記事はこちら↓↓
パニック障害で特に厄介だと思うのが、予期不安と広場恐怖であると私は思っている。
広場恐怖とは前述した通り、すぐに逃げられない場所、助けてもらえない場所に恐怖を感じることで、それは人によってとてもさまざま。
例えば私のように車、電車、飛行機等の公共交通機関(1度入ったらすぐに逃げられない)が苦手だとか、エレベーターなどの密室が怖いだとか、ショッピングモールやお祭りのような人混みに行くと気分が悪くなるとか。十人十色である。
そして、私にとってこの広場恐怖の怖いところは、そのままイコールで発作に直結するということである。
つまり、そういった苦手な場所に行くと、ほぼ9割の確率で発作を起こす。
いや、ある意味この決めつけもこの病気には良くないことで。少しずつ認知を変えて、そういった場所に行っても発作を起こさないから大丈夫なのだと自分にわかってもらわないと、いつまで経っても治らない。
そしてその認知を変えるためには、曝露療法しかないと私は思った。
1.まずは自分を知る事から
そこでまず私は、自分がどういった時に発作を起こすのか、不安を感じるのか、メモ帳に箇条書きにしてみることにした。
•車(特に高速道路及び渋滞)
•電車(新幹線含む)
•美容院
•ひとりで暑い中を歩くこと
•光が明滅する場所(イルミネーションなど)
•人混み、お祭りの喧騒
ちなみにこの箇条書きは完全に当時のものではなく、4年という期間この病と闘ってきた中で特に苦手だったもの、特に発作を起こしやすかったものも含まれている。
発症時の私がとにかく苦手で、それこそ未だに得意ではないのが、車、そして電車である。
電車はもう発作を初めて起こした始まりの場所であるので仕方ないことと割り切ってはいたのだが、車はやはり慣れるまですごく困った。
前回の項で述べた通り、私が住む場所は車がないとどこにも行けないほど、車が生活に直結したものであったので、治療に向けて動き出した私は、まず車に乗れるようになる、を目標にすることにした。
休暇は残り1週間。
私は発作を覚悟で、車に乗りまくってみることにした。
旦那に頼み、近所まで車を走らせてもらう。
発作を起こしたらその都度停まって、治るまでその場から動かない。
渋滞しそうな場所には行かない。
気が紛れるように好きな音楽を必ずかけてもらったり、V6や嵐のDVDを流してもらう。
そして何でもいい、ちょっとしたことでもいい。
旦那にはとにかく私に話しかけ続けてもらうことにした。
旦那は車やバイクが大好きなので、通りすがる車種について色々と語ってもらった。
私は正直全く興味のない話題だったが(酷い)、それでも車に乗っている間中、ずっと話していれば少なからず気が紛れた。
最初は近所を一周。
何周か繰り返したらほんの少し距離を広げて。
それを徐々に繰り返していく。
4年経った今思い返してもコレが1番キツかった。
何度も発作を起こしては、ついには乗り物酔いみたいになって気持ち悪くなったりもして。途中のコンビニで吐いたこともある。
何度ももうやめたいと思った。
それでも歯を食いしばって、少しずつ車に乗っていられる距離を伸ばした。
せめて職場に行けるまで。車で30分の距離を、何倍もの時間をかけて毎日往復した。
延々と喋っていなければならない旦那の声も枯れていた。
そして何とか、体調を崩しながらの付け焼き刃ではあるが、休暇最終日まで残り3日を残して、私は職場まで行けるようになった。
2.安心できる場所を設定する
車に乗る練習と共に並行して行ったのが、自宅を安心できる場所に設定することである。
今後、車に乗る、そもそも外に出る、仕事で何時間も家から離れる。自分にとってそれらがストレスの種になることはわかっていたし、発作も毎日のように起こすかもしれない。
どこかに無条件で安心できるような場所を作らないと、なけなしの精神力が枯渇するのは目に見えていた。
私にとってそれは自宅以外あり得なかった。
自宅であれば母がいるし、人がいるってだけで安心出来る。
もともと私はインドア派だったし、ゲームも楽器も、趣味はほとんど家で出来るものばかりだったので、休みの日は一歩も家から出なくても済む。
自宅を自分の中での安心できる場所に設定するのはそれほど苦労はしなかった。ただ自分にそう思い込ませるだけだ。
軽い発作を起こしても、ここは自宅だから大丈夫、何の問題も起こらないと自分に言い聞かせる。
設定が完了するまではしばらく母に協力してもらい、なるべく私の視界に入る範囲にいてもらって、いつ倒れても大丈夫な状況を作ったことも幸いした。
そのうちに自宅では滅多に発作を起こさなくなり、例えひとりでも自宅であれば平気で居られるようになった。
仕事で発作を起こしても、外で発作を起こしても、自宅に帰れば問題ないと、自分に思い込ませることに成功した。最初期にこれが出来たことは、今考えてもかなり大きかったと思う。
安心できる場所がなければ、きっと私は潰れてしまっていただろう。
3.仕事に復帰してみた
出来ることはした、と自分では思った。やれるだけのことはやったつもりだった。
発症から2週間後。私はいつものように店頭に立っていた。
体が強張って、細かな震えは止まらなかったが、ゆっくりと日々の業務をこなしていく。
何度も何度も発作が襲ってきた。
その度に業務の手を止めて、誰にも見えないところでうずくまって耐えていた。
この病気のことは、店長にだけ伝えた。
しばらくは前のようにテキパキと動けないことも伝えた。
わかったのかわかっていないのか、訝しげな顔をしていたが、私にはそれ以上言うべきことはなかった。
周りのスタッフは色々と気遣って心配してくれていたけれど、正直この時の私は、それを受け止める気力もなかった。だいぶそっけない態度になっていたと思う。
今思えば、コレが良くなかったんだろう。
4.心ない言葉と決別
復帰初日の帰り際、社長が店に来た。
退勤しようとする私を呼び止めて、店長と共に事務所に呼び出される。
呼び出されるであろうことは店の雰囲気から薄々勘づいていたので、まあ予想通りだな、と意外と私は冷静だった。
店のスタッフの好奇の視線は気に入らなかったが、私は“こんなところに来させられて、コイツらのせいでこんな病気になったんだ“と思っていたので、堂々と事務所に入った。
社長と、店長と、私。
未だにこの時のことを思い出すと、吐き気がする。
「店長から聞いたけど、頭おかしくなったんだって?」
社長はニヤニヤと笑いながら、私に向かってそう言い放った。
「心は壊しましたが、頭までおかしくなったつもりはありませんが」
「いや、だって精神病だろ?頭おかしくならないとそんな病気にならないだろ」
フフン、と。言い返した私を鼻で笑った。
社長に私の病状を報告したであろう店長は初めはオロオロしていたが、そのうちに社長と同調する様にウンウンと頷き始めた。
「誰のせいでこうなったと思うんですか?
この病気の原因はストレスです。明らかに店舗の異動がきっかけになったのは明白です。
もともと私は異動はしないとあれだけ念を押していたのに、こんなとこに来たから、こんな病気になったんです!」
「こ、こんなところとは何よ!」
「まあまあ、頭のおかしい奴が言うんだから、あまり気にするな」
私が声を荒げると、社長はそう私を見下して、さらに笑みを濃くさせる。
「そんな病気、頭が弱いからかかるんだ。
そこまで言うなら、別に辞めてもいいんだよ。辞めてもらって、治療に専念したっていいんだ」
「……」
「辞められないだろ?だってそうだよなぁ、体の弱いお母さん抱えて、無職になったらきっとお母さん悲しむもんなぁ」
「仕事は続けます。少なくとも1ヶ月は」
「その間に転職でもするつもりかね?無駄だよ。
君のような病気持ちを、どこの会社が雇うんだ?しかもただの病気じゃない、頭の病気だろう。
そもそも、君はもう外に出るのが辛いんだろ?
転職したとして、その新しい職場に行けるのか?」
「社長には関係ありません」
胃の底からムカムカと、“殺してやりたい“ほどの憎しみが湧き上がってくるのを感じた。
こんな奴らの為に、こんな店の為に、私は自分の体を犠牲にして、奉公していたのかと絶望した。
店の中で病気を患っているのは私だけではない。
持病を患っている店長クラスなんてごまんといたのに、その人たちすらも馬鹿にするような一言がよく吐けるものだと思った。
こんな人がトップに立っている会社が、正常であるはずがない。私はそこでようやく、この会社が、この社長が異常であることに気づいた。
「可哀想になぁ、君が好きだった、なんと言ったっけ、あのチャラチャラした馬鹿みたいなアイドルのコンサートも、もう行けないなぁ。東京までそんな体で行けるわけないもんなぁ?
君、近々結婚するそうだけど、それじゃあ新婚旅行も出来ないんじゃないの?
そもそも、そんな頭のおかしい人間と結婚しようとする人間がいるってことがもう私にしてみたら驚きだがねぇ」
「しゃ、社長、そろそろ」
流石にまずいと思ったのか、店長が慌てて社長に退席を促す。
この社長の発言は、恐らく一字一句間違っていないと思う。この言葉がどんなに屈辱的で、悔しくて、全身が沸騰しそうな怒りと憎悪をもたらしたことか。私は4年経った今でも、ひとかけらも忘れられないし、たぶんこれは、もう一生引きずっていくことになるのだろう。
ひとり、事務所に取り残され、悔しさのあまりにぼたぼたと大粒の涙を流しながら私は誓った。
こんな病気なんかに負けない。絶対に治して、どこにだって行けるようになって、私を笑ったコイツらをギャフンと言わせてやる。
この憎悪が、この4年間の原動力となった。
次回は、私がこの会社と、社長とついに決別するまでを書こうと思う。