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エルサレム神殿の『とある巫女』の言葉(1)
西欧で巫女というと、デルフォイの神託の巫女が思い浮かべられますが、イエス・キリストの時代に、イスラエルの神殿に仕えた巫女がいたのでしょうか?
『とある巫女』と筆者が思っている人物は、ドロレス・キャノン氏の著書『They Walked With Jesus』に、退行催眠で現れた「Abigail(アビゲイル)」と呼ばれる女性です。
アビゲイルは、神殿の祭司たちについて、そして神について、次のように語ります。
祭司は...(彼女は躊躇した-説明するのが難しかったのだ)私にはとても不愉快です。彼らの振る舞い、彼らの教え。彼らはとても閉鎖的です。
彼らはとても暗い。彼らは光の中にいません。真理ですらありません。
神との直接の体験から人々を遠ざけているのです。
神はどこか遠くにいて、そこにたどり着くのが難しいような方ではありません。
神は私たちに腹を立てているわけではありません。
生け贄として美しい動物を殺すことを要求されることもありません。
私たちが呼吸するたびに、神は私たちとともにおられます。
私たちの一部なのです。私たちの中に生きているのです。
私たちは物理的な形をした神です。私たちは「それ」なのです。
それは、私たちが到達できないような遠い存在ではありません。
私たちは価値のないならず者ではありません。
私たちはそれぞれ聖なるものであり、これらの信念を与えられ、聖なるものの本質を持っているのです。
ただ、それが覆い隠されていて、光を放つことができないだけなのです。
・・・
(祭司たちの教えは)とても高尚な感じがしますね。庶民のはるか上を行っている。まるで、庶民は祭司を通さずに直接神に近づくことができないかのように。それは彼らの役目だが、そのせいで人々は、神が自分の中におられることを知ることから遠ざかってしまう。
とても綺麗な言葉です。
Dolores:メシアの話を聞いたことがありますか?
Abigail :メシアは知らないが、教えている人がいると思う。彼は祭司たちにも不満があるようですが(ため息)。私と同じような理解をしている人がいると信じています。
神の国は内にある。神殿は、神と人間を分離するためのものではありません。神殿は結合の場であるべきなのです。人は聖なる空間に入り、神を直接心に招くことができるはずです。
犠牲によってではなく、執り成しによってでもなく、その聖なる地に立ち、神と直接交わることが許されるのです。
新約聖書に、「神の国」についてのイエスの言葉があります。
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見れるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」
おそらくアビゲイルは、ルカ伝のイエスの言葉を(この時点では、イエスと出会っておらず)伝え聞いていて、自分と同じ「神の国」の理解をしている人と思い、語ったものと思われます。
「犠牲によって」というのは、全焼の供犠とよばれるウシやヤギなどの生贄のことです。
「執り成しによって」といのは、祭司による執り成しのことです。
神殿は「聖なる空間」「聖なる地」であり、「神と人間の結合の場」であり、「神を直接心に招く」「神と直接交わる」場所だと、語っています。
このことから、アビゲイル =巫女という理解に、至っています。
一方、新約聖書では、イエスが神殿に対して、次のように語っています。
イエスは彼らに答えて言われた「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起(おこ)すであろう」。
・・・
イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
ここでは、神殿=肉体(人間) というとらえ方をしています。
一方、コリント人への第一の手紙では、神殿(=宮)について、こう書かれています。
あなたがたは神の宮(みや)であって、神の御霊(みたま)が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
この引用部分は、アビゲイルの最初の引用部分の「私たちが呼吸するたびに、・・・、聖なるものの本質をもっているのである。」と同じことを言っているように思えます。
ドロレス・キャノン氏の退行催眠は、アビゲイルがイエスに出会うまでしか行っておらず、その後のことはわかりません。
おそらく、アビゲイルがキリスト教の布教におおきくかかわっており、パウロにも影響を及ぼした気がします。