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カメラの前と教壇の前に立って僕が少しだけわかったこと
「僕の好きな映画のシーンとお芝居の力が、教室で少しだけ奇跡を起こす話」
教員を一旦辞めて、芸能事務所で俳優のお仕事をしながらお芝居の勉強をしていた僕が、二年ぶりに復帰して小学校一年生の担任をしたときに、芝居で学んだことがいろいろと教育ないしは人間生活で活かせそうだなと思ったことがたくさんあった。今日はその一つを紹介したいなと思う。
1 カウンターとテーブル
二人の人間の間で行われるコミュニケーションには大きく分けて2種類があると思っている。1つは「カウンター型」、もうひとつは「テーブル型」である。
「カウンター」では、人は並んで同じ方向を向く。「テーブル」では、卓を挟んで相対する。僕の持論では、2人で食事に行くとき、カウンターかテーブルか、どちらかを選ぶかでものすごくコミュニケーションの種類が変わってくると思っている。
例えるなら、「自分が借金を抱えていたとして、それを恋人に打ち明けるとき」と、「恋人の父親が亡くなって、その葬式の1週間後に初めて父を亡くした恋人と会うとき」では、カウンターとテーブルの選びやすさが全然違うということである。
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借金の話を恋人に打ち明けるとき、カウンターを選ぶ人は少ないと思う。なぜなら、打ち明けたときの2人の状態が、そもそも対峙の関係にあるからだ。「事実を隠していた自分」と、「事実を隠されていた相手」が同じ方向を向くことは難しい。カウンターに座って打ち明けたとしても、相手は結局身体を外に開いて自分をまじまじと見つめ、自分は相手に弁明をするために結局相対し、カウンターに座る意味は無くなる。「恋人に借金の話を打ち明けるとき」は、「テーブル」を選んだ方がいい。殴られる危険性も減るしね。
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一方で、父親を亡くした恋人に会うとき、テーブルを選ぶ人はなかなか居ないと思う。二人は会う時点でお互いに会う目的が何となくわかっていて、その時点で並立の関係にあるからだ。二人は、大雑把に言うなれば、「これからどうやって明るく生きていくか」という同じ方向を見つめることがわかっている。2人は向き合ってお互いに意見を交わすためではなく、横に並んでただ黙って時を見つめるために会うのである。横に並んだら、手を握ることも、背中をさすることもできるし、相手がいちいち自分の顔を見ることに気を遣わせなくてもいい。だから「家族を亡くした恋人と会うとき」は、「カウンター」を選んだ方がいい。
2 押し芝居と引き芝居
この「テーブル型」のコミュニケーションを役者の世界では「押し芝居」と言ったりする。お互いに対峙する。押し合う。相手の目的を妨げる。自分の言い分を聞いてもらう。黙らせる。止める。殴り合う。お互いに引かない。それぞれの目的を達成するためのコミュニケーションで使う演技だ。
一方で、「カウンター型」のコミュニケーションを「引き芝居」とも言う。お互いが同じ方向を向く。相手のために自分が引く。譲る。前から押すのではなく、後ろから背中を押す。励ます。慰める。お互いがお互いを必要としている。2人で一つの目的を達成するためのコミュニケーションで使う演技とも言えるかもしれない。
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「押し芝居」の真骨頂は、1988年公開のアメリカ映画「旅立ちのとき(Running on empty)」のラストシーンである。反戦運動家としてFBIに指名手配され、逃亡生活を続けている家族の話の最後の最後に、ジャド・ハーシュ演じる父親が、今は亡き若き日のリヴァー・フェニックス演じる息子に、渾身の別れを告げる。涙ながらに家族と運命を共にして逃亡生活に着いていくと主張する息子に対し、毅然として自分の将来を生きるように説得する父親の目は、有無を言わさない強さがあり、情を沸かせない優しさがあり、ハーシュの演技は、相手を傷つけてでも父親としての役割を全うしたいという意思に満ちた素晴らしい演技になっている。父親は車の運転席から手を伸ばして車の外に居る息子の顔をしっかりと抱き、二人は完全に対峙している。これぞ涙なしには見ることのできなき「押し芝居」である。
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「引き芝居」の真骨頂は、2017年公開のアメリカ映画「君の名前で僕を呼んで(Call me by your name)」の、これも父と息子のシーンである。恋人と離れ離れになった息子が家に帰ってきて、初めて二人で話をするのだが、今は大ハリウッドスターとなった若きティモシー・シャラメ演じる息子と、舞台俳優のマイケル・スタールバーグ演じる父親が、同じソファに座り、父親が殆ど何も話さない息子に寄り添ってただただ優しく感慨深く話をする。全てを乗り越えてきた父親の強さがあり、父の愛情を受けてきた息子の父に対する信頼があり、到底演技とは思えない神妙な時間が流れていく。父はタバコを吸い、ウイスキーを飲み、息子の肩に手を伸ばし、息子の肩の荷を下ろすために、リラックスさせるために、呼吸させるために、自分が敢えて引く。これも涙なしには見ることのできない「引き芝居」なのである。
3 登校しぶりのA君と暴れん坊のI君に、僕がやった「押し芝居」と「引き芝居」
僕が1年生の担任をしていたときの話である。
A君は、朝、お母さんと正門で離れるときに泣きじゃくって大人に引き剥がされて登校する。僕の一日は始まる。職員室で泣きながら大暴れをしているA君に、どの教師も優しく気を遣う。背中をさすったり、「教室行ってみようよ。」と、優しく声をかけたりするが、全く彼の行動の変化は起こらない。教室には行けず、長い間職員室で暴れている。つまり、これは大人が彼に「引き芝居」をしても意味がないということになる。だからある日僕は彼に「押し芝居」をした。泣きじゃくる彼の顔を自分に向けさせ、おでこと肩に手を置いて、強い口調で彼の下の名前を呼んだ。全く優しさを見せないということが、ときに1番の優しさになるときがある。覚悟を決めて対峙することが、背中を押すよりも遥かに雄弁な引き金になるときがある。「何が怖いのか言ってみろ」とでも言わんばかりの当たりで一通り話した後、「さ、教室行くよ。」と言うと、すんなり自分で歩いて行った。僕の短い教員人生の中でも、最も自分の思いが子どもに通じたシーンだったと思う。
I君は、手が出る。身体はクラスで1番大きくて、動きも俊敏で、多動で、衝動性もある。カッとなるとそのときには他の子に手が伸びている。教室に上がった後に僕が主にすることは、I君を後ろからホールドすることだった。ひどいときは、それで給食時間と昼休みと掃除時間が終わって、お昼ご飯を食べられない日もあった。どの教師も彼に強い口調で指導した。真っ向から対峙して行手を阻んだ。でも彼の行動は変わらない。彼に「押し芝居」は効かない。
僕は事あるごとに彼に「引き芝居」をした。隣に座って本を読んだ。手を握ってあげた。背中をさすってあげた。黙って肩に手を回すこともあれば、彼の良いところを話してあげることもあった。無理矢理話さなかった。彼が聞こうとしなかったら、手紙に書いてランドセルにこっそり入れてあげたり、iPadに送ってあげたりした。
彼は少しずつ変わっていったと思う。ある日お母さんに電話をすると、「毎日先生の手紙を読んで、来年も先生が担任になるようにお祈りしてから寝てるんです。」と言われた。彼からもらった手紙は今も大切にしている。
4 押してダメなら引いてみる
コミュニケーションはもちろんこの2種類ではないけれど、二人間の場合は、大きくこの2つに分類できるということにはなると思う。そして人間は大体の場合、こういうコミュニケーションの種類を超自然的に選択している。自分ではなんとなくカウンターを選んだつもりだったけれど、実は手を繋ぎたかっただけだったり、なんとなくテーブルを選んだつもりが、その日相手と距離を感じているだけだったりする。自分がなぜその一見どちらでもいい簡単な行動の選択をしたのかを考えてみることが、難しい問題の解決のための正しい行動の選択に繋がることがある。そして難しいと思っていた問題行動の目的が、実は簡単な欲求(例えば横で黙って話を聞いてほしいだったり、顔を見て話をしてほしいだったり)から来ていることも多い。人間も動物だから、本来は行動可能な目的(動作可能な目的)に従って生きているはずなのである。もっと素直に人を信じて生きていきたいものである。そして、良い映画にはたくさんのヒントが隠されているのだということも言いたい。まだまだたくさん書ききれないことはあるけれど、今日はこの辺で。また10年後にお会いしましょう。