ゴッドハンドはかく語りき 食いしばりで固まった首がほぐれた話
土曜出勤の代休を取った夫と2人で、子どもらが学校に行っている間にショッピングモールに出かけた。
夫もこのところ老眼が進み、メガネを新調したいというので付き合う。
メガネができあがるまで、ずっとほしいと思いつつ買えていなかったワイングラスを購入した。
こんな風にブラブラ過ごす時間が私たちにはほとんどないことを痛感する。
昼食を取ったら帰ろうと話していたのだが、夫が急に「マッサージに行けるんじゃないか」といつになく目を開いて言った。
梅雨の湿度と気圧に負けて、6月に入ってからはいつも以上の頭痛続き。気象病と言われるこれらの症状に悩む我々夫婦は、年中身体が強ばり凝りが酷い。
いい考えだと賛同し、ショッピングモール内のマッサージ店まで足を運ぶ。
店の前で2人でソワソワしていると、疲れきった様子の女性スタッフが店奥から出てきた。
「お2人同時がご希望ですか?」と覇気のない表情で尋ねる。一瞬たじろいだ我々だったが、すかさず夫が「同時で」と返す。
表情の失せた顔でモニターを見つめた後、視線をこちらに移して「17時からのご案内でしたら可能です」という。
時刻は11時を少し回った頃。子どもらも帰宅するしで、そこまでの時間的余裕は無い。
「じゃあ、やめときます」
正直、あんな疲れたスタッフさんに施術してもらっても、逆に悪い気を送り込まれるんじゃないかとさえ思うほどであった。
「縁がなかったね」早々に諦めたたぬきちと違い、夫は諦めきれないようだった。
「このマッサージチャンス逃してなるものか」と言うやスマホで近隣のマッサージ店を探し始めた。相当お疲れか?
程なくして、自宅に近い場所で今から施術可能な店舗を見つけ出し予約した。できあがったメガネを受け取り、マッサージ店に急ぐ。
駅前のその店舗は小さなビルの1階にあった。あまり聞いたことのない名称で、チェーン店ではないのかもしれない。
店内には受付に若い男性が座っていて、今しがた出勤してきましたという様子の中年の男性が雨に濡れた傘を傘立てに差し込んでいた。予約の我々に合わせて、出勤した、そんな様にも見える。
さて、施術開始とあいなったのだが、夫の担当は若い男性、たぬきちの担当はその中年男性であった。
「なぜだ」
数年前の結婚記念日に2人でマッサージ店に行った際、夫の担当は小柄な女性で、たぬきちの担当が大柄な女性だったことがある。その時も思った。「なぜだ」と。
その大柄な女性のゴリラのような圧倒的パワーに血管がいくつか死んだんじゃないかと思った事を思い出した。
「よーぅ凝ってはるね(訳:すごく凝ってますね)」その男性が、たぬきちの背中を押しながら言う。
「よぅ凝ってはる」
定型の接客表現にはなさそうな言い方。その男性の心からの感想で「人間らしい」そう思った。
今回たぬきちは事前のアンケートで、肩周りと腰周りが痛いと書いておいた。うつ伏せの状態から施術が始まり、背中、臀部、太ももから足裏と流れる様に指圧が続く。
店内に響く癒し系のBGMとともに、施術者のおじさんのぴーぴーという鼻音が聞こえた。
身体の右側、左側と、施術位置が変わり、うつ伏せになったたぬきちの周りをそのおじさんが移動する。
それに合わせて鼻音が色んな方向から、まるで「ここにいるよ」という合図の様にぴーぴー聞こえる。
鼻悪いんかな。そんなことを思っていると、カーテンで仕切られた隣の台から安らかな寝息が聞こえる。どうやら夫は入眠したようだ。
「次は仰向けになってください」そう言われて、膝をついて起き上がり、姿勢を変えた。
うつ伏せの状態で今度は頭から首の指圧が始まる。するとそのおじさんは、「先程、姿勢変えた時、腰どうでしたか?」と聞いた。
「痛くなかったです」
「そうでしょう。腰の緊張を緩めておきました」おじさんは満足そうに話し出した。「腰痛いからって腰ばっかり揉んでもダメなんですよ」
そこから、おじさんの物語が始まった。20年ほど整骨院に務めていたこと。その整骨院は商売が上手くいき、主要な駅にいくつも支店を持てるほど成功していたこと。しかし、そこの経営者は金儲けに走り、「患者を治すな」とスタッフに言っていたそうだ。
治療してよくなると客が来なくなる。多少楽にはしても根本治療をせず、通い続けさせろと。
「それにカーッとキレてね。私辞めたんです」そんな不誠実な経営も長くは続かず、閉店が相次いだという。
はぁとかほぅとかへぇとか、仰向けになってからは色んな相づちを打つ時間が始まった。
隣からは相変わらず寝息が聞こえる。若い男性の施術者は鼻も悪くなく、ぴーぴー音も聞こえない。
最初は、なぜ女性の私に、この中年男性が担当者になったのか?夫が担当してもらうべきでは?と解せなかった。
そしてその時、はたと理解した。たぬきちは選ばれたのだ。彼のお話相手として。往々にして、女性の方が雑談が得意だ。それで選ばれたに違いない。
ぴーぴー音とともに彼の話は続く
「首もよーぅ凝ってはりますね。こういう風に凝ってる人は、寝てる時に歯を食いしばってるんですよ」そう話し、「これが楽になったら嬉しいですか?」と尋ねる。
野暮なこと。「それはもちろん」そう応えたたぬきちに満足したおじさんは、たぬきちの下顎のエラの部分に3本、タオル越しに指を添え、力を入れながらぐるぐるぐると円を描いた。
「たったこれだけで、首の張りが治まるんで、いつでもやってみてくださいね」
そして、彼の話はまだ続く。食いしばりが酷い人は、歯医者に行ってマウスピースを勧められる。食いしばりは、このあごのマッサージで改善されることを歯医者だって知っているが、それで改善されては金儲けにならない。歯医者も患者を治そうなんて思っていない。いかに歯医者に通わせるかを考えてるんだと。
こんな簡単に食いしばりが治ることを医者もマッサージ師も知っている。しかし、ずっと通ってもらうために誰も言わない。
大手のチェーンのマッサージ店ではマニュアル通りの人間が求められる。マニュアル以上の施術をすることは許されない。お客さんが楽になるのが一番であるはずなのに、それが許されないのだと。
そんな話を聞いているうちに、施術の終了時間を告げるタイマー音が鳴った。
「腰も首も楽でしょう?この店1番のゴッドハンドが担当致しました」そう、おじさんは締めくくって終了した。
家に帰って、娘に肩周りを触ってもらった。「首が柔らかくなってる!!」
どうやら、彼は本当にゴッドハンドだったようだ。おしゃべり相手として選ばれたかどうかは定かではないが、腰も首も楽になったのは事実。
それにしても、金儲けってそういう事だが、なんだか世知辛い。今にも降り出しそうな、どんよりした空を見上げながら今日もたぬきちは下顎に指で円を描く。