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我慢という高慢さ

先日、とある染色家の講演会を芸大に通う若者達に混じって聞いていた。その中で、とても印象的な内容があった。

「我慢とは元々自慢に似た意味を持ち、自分に慢心し、他人を軽んじるの意」だったと言うのだ。

確かに、我慢の「慢」は、慢心を表し、慢を従えたほかの言葉を思い起こせば、自慢、高慢、緩慢、傲慢、怠慢など、良い意味のものは見当たらない。

我慢が、「忍耐」の意味にすり変わったのは大正時代なんだそう。

幼少期から、「我慢」が染み付いてたんじゃないかと思う。長子として生まれたわけだが、親から「お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」と言われた記憶が、実はない。

もう、あまりにも昔の事で、忘れているのかもしれないが、それよりも、「自分が我慢すれば、上手く収まる」そう信じてやまなかった記憶の方が強い。親から言われずとも、「我慢」を選択する子どもだった。

そうやって、言いたいことを口に出さず、飲み込むことが習慣化され、言葉が詰まるようになった。とっさに言葉が出ない。

そうして、言葉を飲み込むと、「それもいいんじゃないか」と、納得できる。その結果「いいね」と答える。その気持ちは嘘では無い。

ただ、付き合いの長い友人には、この言葉を飲み込む癖が見透かされていて、「諸手を挙げていいと思ってないのね」とバレバレなのだが。

我慢を美徳と信じ続け、すっかり中年になってしまった。だが、ここまでの歳月を要したからこそ、「我慢は高慢」と聞いて、すんなり腑に落ちたんだと思う。

「我慢は忍耐の意味として使われるようになって久しいわけで、元が高慢に近い意味だったとて、それがなんだと言うんだ。忍耐に言い換えればいいだけでしょう」とはならず、「我慢」という忍耐する行為が、「対峙すべき周囲を信じず、自分だけで解決することに執着している高慢さ」だったとは。

そうであるならば、我慢は美徳でも、思いやりでもなんでもない。独りよがりで、高慢、傲慢な態度になる。

わざわざ、苦労して、辛い思いをして、それが高慢で傲慢なんて、やってられない。美徳だからこそ、我慢はする価値があるってもんだ。

そう思えば、さっさと我慢なんか辞めてしまうのが正解だ。

仕事は辞めると決めていて、事情を知る上長からは、すっかり「もう辞める人」という扱いを受けているが、それでも、「辞めて大丈夫なの?私」と毎日自問自答している。

自問自答したところで、「継続」という選択肢は、はなからないことを本当は知っている。「継続」は、もはや罰でしかない。

心ははっきり退職を決意しているのに、「我慢」が染み付いているせいで、「まだ我慢できるんじゃない?」「むしろ我慢が足りないんじゃない?」「この程度の業務を我慢出来ないなら、どこにも通用しないよ」とか、ありとあらゆる言葉で、自分に我慢を強いるという、1人脳内SMに毎日興じている。

重症だ。

しかし、ここへ来て光明かな、「我慢は高慢と心得たり」だ。

若い学生たちは、一見、芸術論とは関係なさそうな話題と講師の縦横無尽に飛び回る思考に首をかしげながら受講していたようだった。

名は体を成す。「言葉」が持つ本来の意味を理解せずには何事も本質を語ることができないと言いたかったのかなと理解したが、とにかくたぬきちにとっては貴重な機会となった。

芸術を学ぶ人々の中に混じり、今までの生活で聞いたことのなかった染色の歴史や世界の織物の話を聞きながら、「こういう人生もあるのか」と不思議な気持ちにもなった。

我慢するな
我慢するな
たぬきち
こう言い聞かせる。
今がその時だ。
我慢という高慢さを手放す時がついに来たんだ。

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はたらくたぬきち
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