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山旅レポート

「大自然において、人間は浅はかな生き物だということを、つくづく感じる。山にとって、人間は、ただのゴミに過ぎないんだ。死体を担いで下山することもある。死んでいるかもしれない人間の跡を辿ったこともある。オレたちは、自然の一部を借りて、お邪魔しているに過ぎないし、自らの罪意識の贖罪に訪れていると思うのは、傲慢さの極みだ。でも、生きることを教えてくれる。物であるような、オレたちの肉体の行く末なんてものは、誰の興味にも引っかからないんだよ。そうして、山はいつだってそこにあって、古くから人間は挑み続けるんだ。1人で。もしくは仲間を率いて。この年になって思うけど、なぁひよっこ、お前のことが心配でならないよ。甘く見るな、山を。いつか、気の合う仲間を見つけられたら、人生を寄り添ってくれる誰かを、お前もみつけられたら、良いな。」

山の師匠の高田さん。私の受け持ちの患者様だ。週末の登山予定をいち早くお伝えするこの会話は随分と前から、恒例の行事になりつつある。

「いつか、このジャケットを継げるような、クライマーになる日を楽しみにしているよ。」

彼の部屋には、数々の山をともに歩んできた、エンジのマウンテンジャケットが、空海様の木彫り人形の横にハンガーに丁寧にかけられている。

私は、生きているとは、何なのか、自問自答している。日々当たり前に亡くなっていく人を見届けて、大多数のほんの一握りにしか満たない人を丁寧に、お化粧をして、死後の処置を施していく。自分が命を終える、直前まで、配偶者の肩をマッサージしようとする姿を、優しさを抱いて亡くなる人がいることを知っている。

生と、死の間の、数分間を、知っている。

だから、私は、山に登る。
死を見届ける者の、何故か毎回背負ってしまう贖罪の意識を、師匠は、傲慢だと言った、言葉の意味を確かめるために。


日向山(ひなたやま)は南アルプスの甲斐駒ヶ岳から鋸岳を結ぶ尾根の途中から北側に派生した尾根にある標高1,660mの山だ。

尾白川渓谷中駐車場から矢立石登山口へは歩いて1時間ほどの登山道から登り始める。駐車場から登山口に行くまでの道のりからすでに険しい勾配が始まる。道なき道。何となく人が通ったような跡をひたすら辿っていく。足場の状況次第では、簡単に迷ってしまいそうだ。

至る所に生えている紅葉の木には、薄くピンク色になったようなリボンが並んでいる。当時用途は不明だったが、これを登山の道標ではないことを後に知り、震え上がった経験がある。途中何度も転がりそうになりながら、ただただ、進んでいく。まだまだ、序盤だ。ただ、こんな序盤でも、滑落事故死は起きている。

山を登ると決め、勾配を踏んで押し固めている間にも、生と、死の境界線は始まるのだ。どんな場所でも簡単に死ぬことはある。それを選択しなかったとしても。
自然の音と、はっはっはっ、という、静かな自分の息遣い。若干頭が痛くなるような険しさを予感する。

日向山は、グレーディング2A。登山装備は必要だが、道迷いも少なく、日帰りで登頂できる比較的初級者に向いている山だ。


落ち葉だらけの滑りやすい道肌を踏み締めていくと、だんだんと人の踏み固めた跡がわかってくる。

背の高い木々たちの隙間からたくさんの日を浴びながら、少しだけ余裕がで始め、足場の緩急に楽しみを見出す。

1.2.3.1.2.3独自のリズムを刻む。岩場も現れるし、平坦な道もある。木の根が這いずりまわる場所もあれば、無負荷で進める道もある。
自身のbpmを楽しみながら、時には不整脈のようなgallop rhythmを投影しながら安定感がない道を進んでいく。

ひたすらに樹林帯と、1/10、5/10 、6/10といった登頂まで進路の進み具合を表すの木の板を頼りにモチベーションを保っていく。背の高さまで聳え立つ植物を切り込むように、ひっそりと道がまた始まる。私だけの道。周囲に人はいない。私だけが今、歩いている。

信用するべきは、Colombiaで購入した、グリップ力やクッション性、快適性に優れたミッドカットの防水ハイキングシューズ。ミッドソールには、少ない力で踏み出せる、反発力がある。なにしろ、軽い。唯一の相棒だ。それでも、師匠からは、もう少しだけアウトソールのラグ(靴底の突起)の高さを考え直した方が良いと指摘されている。私が登山に限らず、トレイルといった、ほぼ全力疾走で、平坦な山道を周回することも多々あることを知っているからだ。自分の足で、少しずつ知識を取り入れたい私としては、この師匠の言葉が、時々煩わしくてたまらないこともあるが、彼が日本百名山の難易度の高い山を、猛吹雪の中アイゼンやピッケルを難なく使いこなし、進む姿を想像すると、到底敵わない偉大すぎる師匠にはぐうの根も出ない。彼にとって、赤ちゃんみたいな山ですら、私にはしんどい。時に、「ひよっこ」と、笑われながらも、「気をつけて行くんだぞ」と優しい言葉をかけてくれる。ひよっこはいつだって、「師匠、行ってきます」と、ハイタッチをして、お互いの無事を祈り合うのだ。


山頂に近づくと、少しだけポジティブな気持ちに移り変わり、自分を支えてくれる人々に感謝しだす境地が始まる。繁る藪も、飛び出した枝にも、徐に吹き付ける強風も、流れ落ちる汗にも、何も感じなくなる。だだ、その上で、暑さも、寒さも、喉の渇きも、自然に尿意を感じづらくなるように、水分の摂取時期も計算しだす。脱水にならないよう、時間で流れるであろう汗と電解質のバランス、気温と、自身のスピードを、客観的に分析する。帰りの足の浮腫を計算した靴紐の調節。怪我をしないための視野の広さ。そんなふうに現実に率直で、乖離も伴う不思議と、意識だけが離れていく体。適応しだす、感覚。集中しだすと、耳は、敏感になるし、疲労も一時的に消えていく。足の重さも感じないし、リズムとスピードも比例していく。少しずつ景色も変わりだし、高低差にも違和感がなくなる。時折すれ違う下山者に笑顔で道を譲る。互いに微笑み合い、健闘を讃える。多くは発さない言葉と、表情で、通じるものがある。希望のお裾分けは、登山者ならではだ。
三角点に到着する。ここが、山頂だ。
ここの景色は特に何も見えない。
ここからほぼ数百メートルほどで、白い砂地の雁が原が、姿を表す。
少しずつ白樺が増えてきており、開けた空が見えてくる。気持ちが、高揚する。早足になり、次第に走りだす。全力疾走で。全身が息遣いで上下しているし、目が爛々としている自覚もある。もう少し。もう少しーーー。





天空のビーチ。


花崗岩が織りなす砂浜。雁が原。


空が近い。


長い長い、ため息が出るほどの美しさ。空気が清々しい。ひんやりと頬を撫でる風は、無意識に体に浸透していく。
花崗岩が風化して砂になり、白く平たく、広大な砂浜が、広がっている。砂地は柔らかくて、手に馴染む。固く、負荷のかかる山道から、急にご褒美をもらう足場の感触。見渡すと、自然が織りなすオベリスク。見晴らしの良い開けた空間。
今日は大当たりだ。
時にこの場所は砂嵐と霧で、景色が殆ど見えないことがある。迫り来る雄大に聳え立つ、憧れの甲斐駒岳は、雄大で美しい。裾野が広がる八ヶ岳。白く大きな、花崗岩の向こう側に、ずっと昔から、この地に住み続けていた偉大さ。泣きたくなるような、手が届く程に近い空。青みが深くて、涙が溢れてくる。無になる時間。

自然の織りなす奇跡、天空のビーチ、日向山。


私が見贈った死者たち。見贈り続けたその先に、こんなにも美しい景色を、いつか見ることができるのかもしれない。
私達は、小さい。あまりにも、小さい。

師匠は、肉体は物だと言った。
私は、その肉体に翻弄されすぎたのかもしれない。大切な物は、自分の意識下にちゃんと誰しもが持っているのかもしれない。

風になびいた涙と共に、命の重さの定義を図る必要がないことに気が付く。
壮大な自然の中で、溢れるほどの感動を、まだ、自分に持ち合わせていたことが嬉しい。

私はいつまでも、真っ白なビーチの上で、ただ時がすぎることを楽しんだ。人生の先にあるもの。
死の向こう側にあるもの。

案外それは、こんなにも美しい素敵な場所なのかもしれない。


帰って師匠に伝えたい。
ただいまって。

登山者のみなさんへ。
オフラインでの地図・GPS機能のあるアプリが多数存在しています。
どうか装備だけは、きちんとして、楽しい登山をお楽しみください。

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