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私が水戸ホーリーホックを応援するようになって 彰往から考来へ

この街のJリーグクラブと,地方国立大学 茨城大学連携協定との関わり


第1章 プロローグ


1.東日本大震災とFC水戸ホーリーホック,本間幸司というフットボーラーとの出会い


 私がこのJ2クラブを応援し始めたのは2011年3月の東日本大震災直後,本間幸司選手をはじめとする,水戸ホーリーホック選手たちのボランティア活動を目にした時である.水戸市民であるから,このJ2クラブの存在は知っていたし,闘莉王が在籍した時には茨城新聞でその結果を気にしてはいた.しかし,この時までは,サッカー観戦といえば専ら鹿行地域に本拠地を持つJ1の常勝クラブであった.震災直前も鹿島の開幕戦を茨城大学の連携行事でバスを仕立ててもらって観戦に行っていた.
 想定外,と言う,自分としては今までに遭ったことのない自然災害の中,東北地方よりはまし,と言う複雑な気持ちを持ちながら,何をどうすれば良いのかすら分からない自分がいたのを思い出す.そんな中,自らのことも顧みず,この街のため,住む人たちのためにボランティアをしているプロアスリートの姿に,「目を覚ませ」と言われたような気がした.折しも水戸ホーリーホックは経営難の中,Jリーグから援助を受けている状況で,観客動員のための企画を行うという,萩本欽一氏のTV番組に出てしまう,いわば,ワーストクラブのような状態だったのである.
 とにかく,我らが街のJクラブを,クラブ,選手と一緒に育てていくのが,震災に遭った水戸市の再生,発展に寄与するはずだ,と考えたことで,自分も未曾有の震災からの「復興」に向けて立ち上がる支柱ができたという風に思う.
そして,生まれて初めての水戸ホーリーホック観戦は,震災中断後,再開間もないホームゲームとなった,熊本戦だった.メインスタンドはまだ震災で破損し,使用不能.バクスタのみでの観戦となった.結果はスコアレスドロー,それでも,あの,GK本間幸司は,驚異的な柔軟性と筋力をフルに躍動させ,スーパーセーブを連発した.私は一気にコージファンになってしまった.当時は試合後,選手とサポのハイタッチもできて,思い切りコージさんとハイタッチをしたことを今でも覚えている.
もう一つ,忘れられないのは,熊本サポによる震災義捐活動である.ゲームでは敵味方の分かれるが,フットボールを愛するアスリート同士,それを応援するサポーター同士はフットボールが好きなもの同士,熱い友情で結ばれているというその現実にJリーグ百年構想の可能性を感じずにはいられなかった.これは後に,熊本震災に対する水戸ホーリーホックの活動へと繋がっていくことになる.

2.2011柱谷哲二監督と個性的な戦士たち


 この年の選手として抜群の集客力を見せたのは途中加入のタカさんこと,鈴木隆行で異論を挟む余地はないだろう.震災の報をアメリカの地で聴いて,故郷,茨城の力になりたいと,柱谷監督に伝えてきた彼は当初,コーチ,指導者としての加入を打診したそうである.ワールドカップでのつま先ゴールがあまりに有名な彼でも,この時期には現役引退を考えていたようだ.しかし,闘将の「選手としてやってくれ」というひと言で,一から体を鍛え直すことになった.彼のたぐいまれなストライカーとしての技術,闘志は観る者を強く引きつけるものがあり,これだけでもお金の取れる役者であった.彼の加入が経営の危機からこのクラブを救う原動力となったのである.
 ただし,鈴木隆行選手ばかりでなく,多彩な個性を持つ選手たちが集まっていた.ルーキーには大学出のダブル司がいた.筑波大出身のMF小澤司と国士舘大学から闘将が引き抜いてきたDF塩谷司である.シオこと塩谷司はやがて森保一率いるサンフレッチェ広島に移籍加入,広島のJ1優勝の立役者となり,世界に羽ばたいていくことになる.小柄なドリブラー小澤は頭の良さも相まって,まるで牛若丸のような軽やかなプレーで人気を博した.さらにエーコこと小池純輝(現在も東京Vで活躍中)とトッキーこと常磐聡の,若いセブンイレブンコンビのトップ下には,常に若い女性ファンが群がっていた印象が強い.やや怪我が多くなってきていたものの,流石に元日本代表だった吉原宏太は,このチームでも華麗なゴールハンターであった.私は侍のようなSB保崎淳のプレースタイルが大好きであった.因みにこの時,現監督の秋葉忠宏はこのチームのヘッドコーチをしていた.

3.FW13 岡本達也選手の発信力とふれあい


 こうした個性派揃いのチーム内で,ひときわ異彩を放っていたのが岡本達也(現在JFLクリアソン新宿)である.彼はジュビロのユースからトップチームに昇格したものの,出場機会に恵まれないまま契約満了.そして順天堂大学に進学,卒業した後,この年に水戸ホーリーホックに加入した,異色のストライカーである.
 元日本代表の鈴木,吉原のいる水戸ホーリーホックで,FWとしてピッチに立つことは並大抵なことではない.実際,ベンチメンバーにも入れなかったり,ベンチに入っても出場ができないことも少なくなかった.そういう様々な忸怩たる思いとフットボールへの熱い思いを,その頃はやっていたブログで発信し続けたことも,彼をして,水戸ホーリーホック随一のブロガーたらしめたところであろう.私を含め,多くの水戸サポーターが彼のブログ更新を待ち望んでは,一字一句漏らさず読み,反応を返した.彼は,出場時間あたりの得点数がJ2トップになることもあった.
 ブログ上で,彼の目に入る普段着の選手たちの立ち居振る舞いが紹介されると,それがとても生き生きとして,微笑ましく,さしずめ水戸サポの選手情報交換プラットホームのようになっていた.この話題をネタに,ブログ上で知り合いとなり,サポ友として深く付き合うようになった方は,私の周囲にもたくさんいるのである.
 そうこうしているうち,2012年の晩秋,Facebookで友達となった彼から突然,私の研究室に訪問したい!との希望が舞い込んだ.いくら敷居が低い水戸ホーリーホックとは言え,相手はプロのJリーガー.戸惑う私に「あっきーさん,実は今の若い学生さん,とりわけ科学をやっている若い人って,どんな価値観をもっているのか興味があるんですよ.ぜひ話してみたい!」と言われれば,断るわけにはいかないので,非公式ながら,Jリーガーによる研究室訪問と懇談会が茨城大学理学部の火山研究室で行われることになったのである.https://ameblo.jp/okamoto-tatsuya/entry-11424577978.html
 これは達ちゃんこと岡本達也選手にとっても,学生さんたちにとっても非常に刺激的なことであったことは間違いない.また,この後,学生さんのかなりのメンバーがホーリーサポへとなっていったことは言うまでもない.達ちゃんに岩石の薄片を覗かせて見せたら,「こんな薄片を観て,鉱物名とか岩石名が分かる人なんて,学生さんを含めても日本で,Jリーガーより少ないでしょ,きっと!」という感想を,目を輝かせて述べたのを今でも覚えている.とにかく好奇心旺盛で,感性豊かな,しかしストイックな彼の人間性に触れた私は,10年を経た今でも付き合ってもらっている.実は,この出来事が,きっかけとなり,水戸ホーリーホックと茨城大学との連携協定締結へと進んでいくのである.(つづく)

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