私が水戸ホーリーホックを応援するようになって 彰往から考来へ その2
この街のJリーグクラブと,地方国立大学 茨城大学連携協定との関わり
第2章 龍の住む沼にはまったお調子者を救ったホーリーネット
4.龍の住む沼にハマったお調子者
時系列的には前後してしまうが,岩石や溶岩ばかり頭に入っていた,文字通り「石頭」男が,どのようにものの見事に龍の沼にはまっていったのか,その姿を振り返ってみたいと思う.石頭なので,重力場においては,沼地があれば,必然的にはまるのが物の道理ではある.ただ,この沼の居心地の良さは,ご当地ヒーロー的な身近にいるプロアスリートのかっこよさをリアルに目撃すること(オンザピッチ)と,普段の姿,人柄が垣間見える(オフザピッチ),個性的な選手それぞれの人間的魅力の2つが両輪となっている気がする.
2011年は,闘将柱谷哲二いうビッグネームが監督となったこと,日本代表を経験した選手,スタッフが4名在籍し,レジェンドコージは不動の守護神を張り,これに個性的な中堅,更には前出の多彩な選手が新加入し,活気に満ちていた.J2リーグの結果こそ,17位(20チーム)という成績であったが,天皇杯ではコンサドーレ札幌,ガンバ大阪をそれぞれアウェーで撃破し,4回戦はFC東京をケーズデンキスタジアムに迎え撃つという,快進撃を見せたのである.この年に在籍した選手には,前出の選手以外にも,現在育成コーチとして活躍している島田祐輝,飯田優二,クラブスタッフとして復帰した金久保彩など,今でも水戸ホーリーホックに関わっている人も多い.
この頃の練習場は,ツインフィールドと水府橋脇のホーリーピッチの2カ所が当てられていた.基本的に公開式の練習が多く,夕方から練習を見学する,というのも,特に暖かい季節では爽やかなものでもあった.仕事が早めに済んだ時には,家族でツインフィールドに見学に行くこともサブルーチンとなっていった.足繁く練習見学に通ううち,自然とサポーターの知り合いも増え,また,選手とも,練習上がりでシャワーを浴びて帰るところで声かけをしたり,近況を聴いたりすることができた.
サポ友で言えば,たとえばI谷ご一家は,次女さんがうちの娘の面倒をよく見てくださり,いまだにスタジアムでご一緒することも多い.また,常連で,(金久保)彩くんのおっかけだった双子ちゃん(あーちゃん,うーちゃん)のパパは,学生時代,私の所属したゼミで岩石学を研究していた人である.更には飲み物を全選手に配る,通称「ジュースの母」ことS本さんのご夫妻から,選手へのアプローチのやり方とか,最新の選手情報,昔のネタ話など,興味深いお話をいろいろ聞かせていただいたのも,この場である.
選手で言えば,圧倒的な存在感はやはり,本間幸司選手,その人である.後にレジェンドコージさんには茨大ホーリーネットの活動でも大変御世話になることになるのだが,彼と話をするきっかけとなったのは,やはり練習終わりのひとときであった.この頃でも彼は既に練習後,非常に念入りに体の手入れをおこなっていて,着替えて出てくるのはほぼ皆が帰った最後の頃,夕方からの練習だと既に照明灯の光がフィールドを照らしている中であった.こちらが非常に初歩的,感覚的なことを,質問するように話しかけると,コージさんは,例のあの人なつっこい笑顔を浮かべ,「ちょっと座って話しましょうか」などと言いながら,丁寧に,しかしプロアスリートとしての,妥協をしない真っ直ぐな解説を,優しい瞳で,素人でも分かるような言い方で話してくれたのである.話した内容と言うより,そうした彼のプロフェッショナルとしての凜とした姿勢と,彼のいう「家族」に対するようなホスピタリティーに,お調子者は一気に飲み込まれていったのである.まさにレジェンドコージは龍神の使いである.彼はこの年の10月,400試合出場の金字塔を打ち立て,その記念のユニフォームが発売されることになるが,朝早くから並んで一番に購入したのは言うまでもない.
5.柱谷体制による育成活動
明けて2012シーズンは闘将が育成に取りかかった年,と私は観ている.高卒ルーキーの鈴木雄斗(現,ジュビロ)と内田航平(現,徳島)を加入させ,また,他クラブで出場機会に恵まれていなかった原石として,橋本晃司(現JF鈴鹿)と三島康平(現JFマルヤス)さらに輪湖直樹(現アビスパ福岡)を迎えた.一方で,故障を抱えつつも,経験と技術,フットボールにかける姿勢は抜群だった,元日本代表の市川大祐を招聘した.こうして,元日本代表の経験値や姿勢を,伸び悩んでいた若手,ルーキーに直接ぶつけて,真摯な態度で成長を促すという,いかにも闘将らしい育成法を始めたのがこの年である,と解している.10年経った彼ら選手たちの今の姿を見れば,闘将の目論見は相当程度に実現したのではないか,と思われる.
そしてこのシーズン,岡本達也はレギュラーポジションをほぼ獲得し,20試合の出場ながら,8得点をマークする.そして彼の得点後の大仏ポーズは大人気となった.この年,彼は日本プロサッカー選手会副会長に就任する.岡本押しとなった私はもう,多くの岡本信徒たちとともに,二度とこの沼からは這い上がれない,しかし甘い香りのする運命をたどることになる.
こうした雰囲気の中で,前出の,岡本達也,茨城大学お忍び訪問となるわけであるが,一寸先は闇とはよく言ったもので,その直後,2013年の正月,彼の突然のガイナーレ鳥取への移籍が発表され,泥沼の岡本信徒たちは息も絶え絶え,地獄の苦しみを味わうことになる.
6.瀕死のお調子者を救ったホーリーネット
オフシーズンの選手動向を,悶々とした気分で過ごしていた私に,思いがけない知らせが舞い込んできた.クラブ営業スタッフの渡邉欽也から,「今度,茨城大学と水戸ホーリーホックとで連携協定を結びたい.ついては人文学部の高橋修教授と一緒にそのための準備の会合を持ちたい」というのであった.真っ暗闇の中に差し込んできた一筋の光明,まさに,地獄に仏,とはこの事である.
私の思い込みで申し上げるならば,今までなんとなくこっそり応援していた水戸ホーリーホックを,これからは堂々と学内でも宣伝応援できる!ということであるので,まさに願ったり,かなったりと言える訳だ.
有志で三度,四度,打ち合わせを持つうち,学生さんたちにも,「実は私も応援しているんです」という人が集まってきた.高橋研究室で,水戸ホーリーホックでインターンシップを経験し,実際に受け付けもしていたKanaさん,ブレイバーズなど,水戸コアサポメンバーのO槻くん,さっちゃん,人文で水戸サポーターをしていたネモッチ,白石くんなどなど.
平たく申せば,大学組織というのはデパートと言うよりむしろ,モールのような組織で,高橋教授をはじめ,学生さんたちはみな他学部の所属なため,いわば別会社の人.こんなことでもない限り,同じ水戸キャンパスにいても,すれ違いこそすれ,親しく話をすることなど,おそらくなかったと思われる人たちなのである.今でこそ,高橋さんとは戦友みたいな間柄であるが,この時までは詳しい専門も,人柄も,全く知らない者同士だったのである.
応援するのに歳も学内の身分も性別も関係ないので,お互いの気心が知れてくるようになるにつれ,「お偉いさんみたいに,連携協定を結んだ,という,エビデンスをもらったら,ハイそれで終わり,じゃあ,つまらないよね!なんとかその水戸ホーリーホックを実質的に応援することで,モールのような学内閉鎖組織の壁を,せめてホーリーホックを応援する時だけでもぶち破って一体感をもってもらおうよ!」という気運が高まっていったのが,茨城大学水戸ホーリーホック応援ネットワーク(茨大ホーリーネット)活動の始まりである.旗振り役となる教員は私と高橋さん,それに教育学部の木村競教授を仲間に引き入れ,さて,これから現在に至るまで続くことになる,この得体の知れない学内実働組織の活動において,クラブスタッフであった渡邉欽也の活躍に依るところは非常に大きかったことを,ここで申し上げておきたい.(更につづく)
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