悪党どもの遥かなる冒険 惨
一切は燃えている
煩悩の炎によって汝も
汝らの世界も
燃えさかっている
かれこれ人間世界での時間に換算して一、二日は歩いただろうか。
男と女は痩せさばらえ、かつ苔むした我が身を少しも労ろうともせず、足を前へ前へと進めていた。
不思議と空腹にはならないが、死人の腹が減るのか? という単純な問いに男の思考が穿たれた。
「ほな… なんで、痛いとかは感じるんやろか !? 」
素朴かつ根源的な疑問が脳裏を掠めた。
「わしら、死んだよな… でも生きとる時みたいに痛いとか怖いのは何も変わらんで同じや。」
やはり女は茫漠ながら、男からは一瞬たりとも目を離さずに耳を傾けている。心までは "死んではいない" 証拠と謂えようか。
「… 」
「これはどういうこっちゃ? なんで、そないな仕組みになっとるんや !? 」
男の疑問は至極真っ当だが、今この場では何の役にも立たないし男もそれは承知している。
実は、この疑問というか憤慨は半ば擬装であり目眩ましなのだが、通用しないであろう事は想定済みだ。正確には目眩ましというより、ただ己の混乱を撒き散らしているだけとも謂える。
塞ぎ込むのは性に合わない。
「それにしてもクソ暑い! …こんな事やったら池の水を竹筒にでも分けてもらんやったな!」
つい今しがた、腹が減らない云々な会話が為された事が遠い昔のようだ。
「… 」
「なぁ、ねぇさん! アンタが言うてた鬼の城みたいなとこは、ここから近いんか?」
「! …まさか、行くつもりなんか !? 」
「儂の見立てやと、この地獄で纏まって人が居るとしたら、そこやと思うんやがなぁ。」
「 …止めた方がええわ。ウチが見ただけでも、あの鬼の連中は十や百やないで。」
まるで戦さ支度かの装束に身を包んだ鬼が隙間なしに整列しているのを何度も目撃したという。
「そうか… なら、取り敢えずは儂が居たとこへ戻るしかないか。」
あの総毛立つ肉の壁を再び拝むのは後免被りたいが、最初の目的地が難攻不落とあっては致し方ない。
しかし、男に気落ちしたような様子は見られないどころか、寧ろ目標が絞れて仕事が捗り易いと感じている節さえあった。
その根っからな盗賊気質を満喫しながら、しかし一方で気掛かりも有る… 脇から生え伸びた繊維は蜘蛛のそれのように単なる糸ではなく、若干湿りを帯びており弾力的であった。
「それ… なんなんやろなぁ?」
「… 」
応えられない女の問いに、男の擬装は一旦休息の間を与えられ嘆息を漏らした。
二人が無口になりだし、血が滴ったような太陽(なのかは定かではないが)が随分と岡の向こう側へ押しやられた頃、男は見覚えのある場所へ還ってきた事を思い知らされた。
ひどく憂鬱な気分に陥り、軽く目眩にも似た感覚に襲われるが今は倒れている場合などではない。
少々怪しいとはいえ "仏さん" との密約を果たして、この呪われた地から一刻も早く逃げ出したかったからだ。
岩とは違う肉感的な洞窟の入り口を再確認すると、その気持ちは更に加速された。女への淫らな想いすら吹き飛ばすほど… 正にその時、男の意識に反応したかのように脇の下から生えてきていた糸が音もなく伸びていき、女の足首に素速く巻き付いた。
「!… 」
瞬巡の後、男は糸の事は女に告げないと心に決めた。
理由は自分でも定かではないが、男の勘というか、深い部分からの警告のような気がして躊躇ったというのが最も正解に近いと言えようか。
人生の大半を盗賊稼業に身を窶(やつ)してきた男の神経は何かの危険を嗅ぎ分けたらしい。
今はまだ、どんな類いかも判りはしないが…
すぐ脇をまるで血のようなマグマが泡立ちながら川のように流れていく様子は嫌というほど地獄に存在している事を二人に実感させる。
その中を健気に、しかし強かな魂の持ち主たちが一つの目的に向かって確かに蠢く… それは恰も、秘密の科学実験のように静かに深く、周囲へ微細な変化を施しながら進行していく。
もはや後戻りできない座標軸へと身を沈める二人は完全に無言となり、これから起きるであろう変化に全身全霊で備えながら、正に地獄の入り口へと再び踏み入った。
出入り口から程なく、声などは聞こえないが複数の足音と交錯する啜り泣きが薄暗闇の中で二人の耳を刺激した。
咄嗟に物陰へと身を潜め、必死に恐怖を抑えながら音がした方を窺うと二匹の鬼に引き連れられた人間たちの憐れな姿が目に飛び込んできた。
女に目配せと手つきで退がるよう促し、滑るように肉の床を這い進む男の姿は盗賊そのもの。
その様子を喰い入るように見つめる女だったが、突然大きな鼓動がドンッと一つ鳴り魂を寒からせしめた。
それは何度か経験した炎による滅却の予兆であり、思わず踞り胸の辺りを擦るが、二度三度と繰り返されると震えが止まらなくなりだした。
その圧倒的な恐怖に歯が鳴り落涙する女は男の姿を見る事で己が自身を鼓舞しようと奮闘する。それは優しさや愛などという生易しいモノではなく、まるで憎悪にも似た重い感情だった。
不思議な思考とも謂える心持ちだったが、裏を返せば生への執念が出て来たからだろうか。
左へ少し畝ったところで男は立ち止まり集団を観察しようとしたが、予想外の異変に戸惑った。…何故だか鬼が居ない。
人間たちは恐怖を感じてはいるが、それを上回る言いようのない大きな不安に囚われており、徒にその場で鑪(たたら)を踏んでいた。
当たり前な反応に包まれたのは一瞬で、近くに鬼が本当に居ないのを確認すると男は一番手前の亡者に声を掛けた。当然、最低限度の声量に抑えたのは言うまでもない。
呼ばれた亡者は弾かれたように振り返ったが、恐怖に駆られた動作なのは明らかだった。
「! …お、お許しを! 儂らはどこへも行きませんよってに! 何とぞ… 」
辺りは漆黒という程ではないが、明瞭な視界はない。蹂躙されるしかない亡者にしてみたら仕方のない反応ではあった。
しかし、男は卒然と "仏さん" に笑われた事を思い出して考えさせられた。
立場の違いから産みだされる恐怖や優越といった感情の反転や捻転がパノラマのように脳内で再構成され、その中心と円の外に佇む各々の自分が何かを訴えてくる。
(何をぼんやり考えとるんや! ここをどこやと !? 要らん事を考えるのは後や。)
痛いほど理解できる相手の卑屈な態度をやんわり制止しながら、それでも力強く、静かに男は語りかけた。
「ええかっ、よう聞いてくれよ。ここから逃げたかったら黙って儂についてこい。分かるか?」
「ええかっ、鬼がどこへ行ったんか知らんけど、逃げるんやったら今しかないぞ!」
この辺りになると他の亡者たちも不審すぎる訪問者に気が付いて、小さくはない動揺の波が広がっている。
「 …アンタについてって大丈夫やという証し、あるんかいな !? 」
「お前の言う事は尤もやが、あんまり時間かけられへんのや、分かるやろ。せやけど、どうしても信じられへんってなら諦めるしかなさそうやが… 」
最後の言葉が投げやりで体を半身にしたのが幸いしたか、相手側の態度が急に軟化した。
「儂らの誰を "おやつ" にするとかで揉めよってな… おとろしい(恐ろしい)連中やが、かいらしい(可愛い)やら何やら、訳わからんわ!」
ひょっとしたら自分も "おやつ" にされていたかもしれない記憶が蘇り、含羞む(はにかむ)男。
人間は同じ過ちを繰り返す生き物、という事を嫌なくらい思い知らされる場面だが、そこには原初の知恵とも謂うべき発想の源泉が在る。
大事なのは行動する為の動機付けであって、勇猛さや計算の有無は二の次だ。
男は自分がこういう時に、ひどく冷酷な表情になる癖を知っていて敢えて出しっ放しにしておいた。
血まみれな鬼一匹が忌々し気な面持ちで場に戻ってきたが、驚愕も憤怒も後悔も、全ては後の祭り。
その鬼はより上位な存在の叱責を恐れてか、自分が戻るべき方向とは違う道を何度も振り返りながら、どことも知れない闇の中へと消えていった。
まるで《死の行軍》と化したかのような小さな集団を引き連れた男と女。彼らは険しい渓谷から荒野を抜けて、遠目にも分かる件(くだん)の森へと還ってきた。
道中、鬼が現れやしまいかと肝が冷えどおしだったが、僻地な為なのか特に気配を感じる事もなく無事に辿り着けた。
二人以外は思った通りに驚き、喜色に満ちるが男は歯牙にも掛けず無遠慮に言葉を吐いた。
その割りには嬉しそうな顔をしていないのは承知している。核心は他にあるのだ。
「ただ… ちょっと待っとってくれへんか? 確かめたい事があってな。」
道中で大筋の説明を受けてはいるものの、今この男に逃げられては絶望しかない。
「心配すな。大した事やない。"仏さん" と詰めの話するだけや。」
何の… と問われた男は既に背を向けて繁みに足を踏み入れている。
その姿を見ながら、女は迷った上で止めようとしたが、やはり一緒に行く事にした。
最初に依頼された時、男が場合によっては断りかねなかった事を思い出したからだ。
鼓動の間隔が少しずつ狭まってきてる現実に絶望的なまでの深い焦燥が募る。
泣きだしたい気持ちが加速度的に破壊衝動を膨らませていくのを女は抑えようともせずに男の後を歩いていく。
足首に絡んだ糸が音も無く、より強く締まっていくのを女は気付いていない。
初めて邂逅した時と変わらずに頓狂で鷹揚な声に二人は出迎えられたが、その所作に何らの曇りも見受けられず、地獄の只中とは思われないほどの威風を周囲に蒔き散らせている。
しかし男は惨めなまでに卑屈な態度を択っていた以前とは違い、落ち着き払った態度で "仏さん" との対峙に臨んでいた。
なきに等しい表情で成果を披露する男は余計な媚びや世辞を交えず、いきなり本題へと話を移す。
いつの間に掌に忍ばせていたのか、何の予備動作もない、いわゆる礫(つぶて)と謂われる投てき方法で超越者たる "仏さん" 目掛けて石を投げたのだ。
女は男の暴挙に驚愕したが、放たれた石が音もなく "仏さん" の体を通過して池に落ちた事に、より大きな衝撃を受けた。
頓狂だった声が信じられないぐらい、暗く重い響きへと変わった時に女は男が感じていたであろう疑問を理解させられた事となる。
超越者が取るに足らない魂へ科した冒険の裏側には地獄の底よりも深い理由があるらしい。
「最初からです。おかしな話やと思とりました。なんで儂らみたいな小者に頼むんやろか、と… 」
鬼が幾千と徘徊するような世界で裸の人間に何が出来る訳もなく、普通に考えれば最初から不可能な依頼だったのだ。
「ひょっとして "仏さん" は地獄じゃ何にも出来ひんのでは? でも、いつかは地獄を乗っ獲るおつもりで?」
小さな撹乱を幾つか起こし、基盤を揺るがした上で奪取するというなら戦略としては有りだが、やはり駒の力不足は否めない。
「このねえさんが見たっちゅう、戦さ装束した鬼たちの話を聞いて、こりゃ随分と前からやってはるんやろなぁ… と。」
どこか他人事みたいな態度を択り続ける超越者を相手に折衝する事は想像以上に気骨の折れる作業だが、ここが踏んばりどころ。退く訳にはいかない。
流石に『アンタも… 』という言葉は控えたが、超越者が地獄では無力に近い事は確かめられた。
そして、それを看破せしめた恐らくは最初の人間となったが喜びはない。
「還ってきたのは一人。あんた一人や… いや、二人か。ほんま、ようやり遂げましたなぁ。歓心しましたわ!」
話を逸らされているようで癪に障るが、短気は損気と謂うではないか。
「いや、こんなもんやおまへん。もっともっと連れてきまっせ。」
「自信なんかおまへん。儂みたいなもん、あの連中に見つかったら一発ですわ!」
「ほな、なんでまた引き受けますのや? 危ないの分かってて… 」
一度でも苦痛な依頼をこの後、何度も履行するなど、とても正気の沙汰ではない。
しかし男は確かな予感に基づいて言葉を選び、その困難に向かおうというのだ。…そう、確かな予感に基づいて。
男と超越者は「あぁ…」という感じで振り返り、各々の反応を見せた。
「いや… お二人に表の人らを極楽まで連れてってもらおかな? そっちは大事ないさかい、安生いけまっせ。」
"仏さん" が指した方向は地獄にしては穏やかで緩い道程だった。
という、アテにして良いのかどうか不明な言葉が頼りで、かつ絹に一滴の墨が如く男の心に在った。
しかし鬼への恐怖は有るものの、やはり極楽へ行けるとあって皆の気分は下がらないし、どこか浮かれたような者さえ居る始末だ。
女だけは明らかに追い詰められたような表情で歩いているのだが、男は敢えて無視し続けている。
その雰囲気はもはや只事ではなく、何か危険な臭いさえ濃厚に漂わせてくる。
この行程をさっさと済ませて次の亡者たちの許へと向かいたかったので静観を決め込んでいたが、女を眺めていて不安にならずにはいられなかった。
辺りが少し灰色がかった景色となり、陰鬱な空気が薄らいだ頃、薄汚れた一行は小さな丘に差しかかった。
中には腰を抜かす者も居るほどの衝撃だったが、その声の持ち主の姿はなく、徒に動揺を上書きした。
震えながら四つん這いになっていた女の鼻先に樹々から垂れた蜘蛛の糸… その先端に人間の言葉を話さない筈の小さな生き物が威勢よく、かつ偉そうにぶら下がっている。
「あれ? …お前は聞いてたのと違うなぁ。…ん?あぁ、こっちか!」
その "蜘蛛" であるはずの生き物は座り込んでしまった男の方へと中空を移動する。
やがて、その生き物は男の膝へと辿り着くと小さい体とは見合わない言葉を継いで自身を大きく見せようとする。
なんで知っている?という疑問は特に起きなかった。いくら無力に近いとはいえ、仮にも "仏さん" なのだ。念じて想いを飛ばすぐらいは可能だろう。
それよりも運び屋という、ひどく娑婆(しゃば)を思い出させる言葉に奇妙な違和感を覚えて可笑しさが込み上げてくる。
戻ったところで何ら良い事など望めない絶望の世界なら必要ない。それこそ、生きてる時に何度現世に在る事を呪ったか。
鬼たちは脅威を具現化した最たる存在だが、人間の方が… そう考えた時、鬼気迫る女の表情を思い出した。
目前の "尊大で小さな迎え" に、多少なりとも業腹になりつつある。
いきなり居直った男に "尊大で小さな迎え" は少しだけ怪訝な顔を見せたが、元から人間な男には判らなかった。
鬼たちの気配が希薄になり、更に鬼どころか動く者すら皆無になった頃、気が付けば草木すら生えていない "完全なる無" が支配する地に入り込んでいた。
その殺風景の典型な状況にも動じず、ただ黙々と歩みを進める亡者たちだったが、その精神力を試す最終試練が遂に訪れた。
少し開けた場所の岩場に囲まれた、その奥で天に向かって穿たれた梯子… その、余りに非現実的な景色は言葉にならない圧力を見る者に齎し、かつ希望と絶望を併せたかの錯覚まで生じさせている。
"いと小さき導き手" は再び尊大さを取り戻して自己顕示欲を充たしているようだが、もはや人間たちの耳には届いていない。
そして、ほんの一瞬の微かな静寂を破り、亡者たちが梯子へと殺到したが、聞き覚えのある "仏さん" の金属的な声が唐突に響き渡った。
ギクッとばかりに歩みを止める亡者たちと名差しされた二人は完全に動きを封じられた格好となったが "我らが小さき導き手" が助け舟を出し存在感を示した。
「 …まぁええやんけ。アンタら二人から昇りいや。鬼らも "ここ" までは来れんへんから安心したらええ。」
普通なら安心を得られる言葉だが、ここは場所そのものが尋常ではない。
(なんやねん… ここまで来て、まだ試すんかいな!てか、こんなとこまで ”範囲” なんやな)
我に還った感じで男の顔を見上げる女は一つ息を吐くと決心したらしく、梯子に手を掛けた。
その執念が手の平から異常な力を産み出し、かなり短くなった滅却へのカウントダウンが萎えそうな魂を後押しする。
とはいえ、流石に先が見えない梯子は心をへし折るのに充分な威力を有していた。
女に続いて昇った男や他の亡者たちも途中までは気力を搾れたが、いつまで経っても終わりが見えない梯子を昇っている内に本当に極楽に辿り着けるのか?という思いに始まり、遂には
男の上腕筋の感覚が麻痺寸前となる頃、もはやどうでも良くなるほど全身で疲れ果てだしたが、ふと見上げれば女は変わらない速度で梯子を健気に昇り続けている。
下を見れば他の亡者たちは這々の体(ほうほうのてい)で、自分が決して異常ではない事を証明しているし、いくら何でも女の細腕にしてはタフ過ぎた。
しかも、向こうと繋がっている例の糸が限界に達しつつあるらしく、少し引っ張られ気味なのも男の不安に拍車を掛ける材料となっている。
頭と体が極限にまで追い詰められた時、いきなり糸が撓み女の声が断片的ながらに聞こえてきた。
よほど疲れたのか、声は掠れ野太くなっていたが、男の目にも梯子の終わりが映ると心が躍り、同じように大声で叫びだしていた。
その絶叫は下の連中にも聞こえ、限界だった筈の魂に限界以上の力を与える作用を齎す。それは惨めな地獄の亡者たちが極楽に足を踏み入るという快挙が為された瞬間なのだ!
男は梯子の先端に手を掛け、半身の姿勢から広大な極楽世界を目にした。
そこは匂いがなく、何の音もしない、乳白一色に染め上げられた不思議な景色で、平和や楽園というよりも『死滅』と謂った方が似合う、ひどく異質で辛気臭い別世界だった。
下世話な望みなど抱いてなかったが、予想外すぎる現実は男の儚い期待を嘲笑いながら、更に逆撫でするような結果を齎したらしい。
昇りきった場所から少し先で微動だにしない女の後姿は男と同じ心境だからなのか?
声を掛けはしたものの、男は女が相当落胆したのかと思い二の句が継げない。
しかし、男の声に反応して振り返った女の顔は落胆どころか全ての憤怒を背負ったかのような異形と化しており、その身体からは微かながらに邪気まで漂わせるほどの変貌を遂げていた。
我が身に起きない滅却の炎を考え併せると生前の女は余程の悪事を仕出かしたのであろうが、当然ながら今はそれを考える時間や余裕などない。
力が籠り過ぎているのか、こめかみや腕に浮き上がった血管から噴き出す血を気にもせず、少しずつ男の方へ歩を進める女。
もはや毛物(獣)そのものな太い声と、やや前傾となり獲物を捕まえんと突き出された両の腕は脅威以外の何物でもない。
悲鳴のような絶叫と共に跳躍する女 … いや、女だった "鬼未満" は信じられない速さで男めがけて突進してきた。
為す術なく、ただ梯子にしがみ付いていた男だったが "鬼未満" が男を掴もうと接近した刹那、二人を繋いでいた糸が絶妙に伸縮して "鬼未満 "のバランスを足許から崩した。
慌てて傾いた身体を直そうと、反射的に逆方向へ仰け反ったが、その先は男の頭を越えた何も無い空間。
自身に加わった推進力を止められない "鬼未満 "は足場を失い、中空へ飛翔した。
当然、繋がっている男も体ごと引っ張られたが、勢いが強すぎたからか、糸は根元から千切れてしまい "鬼未満" は完全に自由の身と為ってしまった。
落下し、みるみる小さくなっていく "女だった鬼" を脇から流れる血を抑えながら見送る男。
(ま… また一匹、鬼が増えた訳か。い、いや、この高さやったら死んでもうたか?)
そこに感慨や感傷など微塵もないが、なんだか奇妙な寂寥感だけが男の神経を支配する。
梯子を昇りきって座り込み、過分すぎる戦闘を強いられた心と体を労る男の頭の中に極楽に行きたいだのとの考えは、もはや塵ほどもない。
それは極楽が自分にとって決して安住できる楽園ではないからだけでなく、もっと別の目的が積極的に湧いて出て来たからだ。
肝心な部分を秘匿され、危うく二度目の死(?)を迎えかけた男が超越者から褒美をせしめる算段に耽っている間に他の亡者たちが上がってきた。
その時、脇腹の軽い痛みが一つの存在を思い出させていたが、それは過去というよりも未来に向けた想念のようだ。
"逃がし屋" の暗躍で閻魔大王の腹(はらわた)が煮えたぎり、多くの鬼たちに怒りの矛先を向けられたと謂う。