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母の死 母からのメッセージ1

※過去記事 母の難病 霊感があるという事 の続きになります。

その日は朝5時半位まで、父が側におり
母の世話をしていた。

母はまだ寝ていたようで、呼吸を助ける呼吸器マスクを付け横になっていた。

その後、父はいつも通り仕事に出掛けた。

朝8時、いつもの時間にヘルパーさんが来てくれた。

私はまだ2階にいて、ヘルパーさんが8時30分時頃に帰られるのと交代になるので、
それまでは休んでいる時間だった。

突然1階でヘルパーさんが私に
来て下さい!
と叫んだ。

お母さん呼吸してない!
ヘルパーさんが震える声で言った。

母に触れると既に冷たくて、
体中硬くなっているではないか。
死んでる。もう死んでる。

すぐに泣きながら父に電話した。
早く家に帰ってきて!
あちこち電話して、担当の医師が来てくれた頃には、沢山の人が集まっていた。

大体の死亡時刻は朝6時頃。
誰も居ない時にひっそりと静かに逝ってしまった。

泣く暇もなく、訪問看護のいつもの看護士さんと
母の遺体を綺麗にする作業を手伝わせてもらった。

既に死んでから時間が経過しており
体が硬くなっていたが、
丁寧に拭いて、便の処理もして
白い浴衣を着せた。
口は開いたままになってしまっており
とても硬くなっていたので、
看護士さんと一生懸命押さえて
タオルでとりあえず固定した。

母は生前旧統一教会の信者だったので
母の希望通りのお葬式をする事にした。

母以外の家族、
父も弟達も特に宗教にこだわりはなかったので
近所の玉泉院で宗教を伝え、
取り計らってくれるとの事だったのでお願いした。

玉泉院は結構沢山の宗教に対応しており、
それには驚いた。
かなりマイナーな宗教にも対応してくれる。

母の友達、宗教の山口さんに一緒に葬儀場に来てもらい、玉泉院の方と葬儀の準備をした。

父は、というと、ずっとうっすら泣きっぱなしで、元気もない。
一応喪主ではあったが、そんなだったのでもう家に残してきた。

葬儀の準備はというと、御棺の種類から
花の種類まで、決めるまでに夕方まで掛かってしまった。

母にはエンバーミングをしてもらう事にした。

化粧も施してもらった。
白髪を気にしていたので、白髪染めまでお願い出来た。

1人だと全くどうしていいか分からなかったので
山口さんには本当に感謝した。

一通り終わった頃には外はもう暗くなっていて、
山口さんと別れその日は一旦家に帰る事にした。
喪服も無かったし、私の格好は朝起きたままのジャージ姿だった。

帰り道、やっと車の中で1人になると、じわじわと悲しみが襲ってきた。
涙で目の前が滲んでしまい、それを拭った時だった。

母が満面の笑みで、フロントガラス一面の大画面に現れた。
こっちは泣いてるのに!

母さんの本当に嬉しそうな笑顔を見て、
何だか私も笑ってしまった。
苦しみから解放されたあの幸せそうな顔。
まぁそうだよね。
あんなに苦しかったんだから。
その日はそれ以上、母が私のところに出てくる事はなかった。

母の遺体はエンバーミングをしてもらう為
家にはもういなかった。
後で葬儀場で母の遺体と待ち合わせ予定だった。

その日は大阪から親戚、
東京から弟達が集まる事が出来ず、
結局通夜は明日になり、葬儀は明後日。
母の遺体の当番は私と父と2人でする事になった。

父は母の介護では夜の当番だった。
いつも、母の側に簡易ベッドを組み立てて寝ていた。
日中は昼過ぎまで仕事して、
あまりゆっくり眠れる事も無かっただろう。

今日くらいはゆっくり寝たら、と話した。
父はいつもの習慣なのか、眠れず落ち着かなかった。
1人になりたいのかもしれないと思い、
その日は父を家に帰らせた。

私達が借りた式場の控え室はとにかく広く、
壁から出すようなタイプのベッドも6台位付いていた。
で、そこに私と母だけ。
何だか居心地が悪かった。

お風呂はめちゃくちゃ広く
豪華な石造りだった。
とりあえず1人お風呂を満喫してみた。

夕方に母が満面の笑みで出て来た事もあって、
私は母のすぐ横で、その日はもう泣くこともなく、眠りにつく事が出来た。

※母の死 母からのメッセージ2に続く




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