見出し画像

漱石「こころ」考察2 先生は「行人」の三沢



夏目漱石の大正三年(1914年)連載の作品「こころ」
この作品に「K」という人物が出て来ることはみなさんご存じでしょう。

私は以前、漱石の他作品「行人」についてこう書きました。

・「こころ」のKは、「行人」の「精神病の娘さん」である と

しかし今回、それは逆ではないかと思いました。

・「こころ」の「先生」が、「行人」の「三沢」である と

(なお「行人」は大正元年(1912年)連載開始の作品。「こころ」より2年早い)


1、「娘さん」と「K」の共通点


1(1)「行人」の「精神病の娘さん」

「娘さん」というのは、「行人」の主人公にの友人に「三沢」という男がおり、三沢の話に出て来る人です。

 今から五六年前彼の父がある知人の娘を同じくある知人の家に嫁らした事があった。不幸にもその娘さんはある纏綿した事情のために、一年経つか経たないうちに、夫の家を出る事になった。けれども其処にも亦複雑な事情があって、すぐ吾家に引取られて行く訳に行かなかった。それで三沢の父が仲人という義理合から当分この娘さんを預かる事になった。――三沢は一旦嫁いで出て来た女を娘さん娘さんと云った
 その娘さんは余り心配したためだろう、少し精神に異状を呈していた
(略)
「その娘さんが可笑しな話をするようだけれども、僕が外出すると屹度玄関まで送って出る。いくら隠れて出ようとしても屹度送って出る。そうして必ず、早く帰って来て頂戴ねと云う。僕がええ早く帰りますから大人しくして待っていらっしゃいと返事をすれば合点合点をする。もし黙っていると、早く帰って来て頂戴ね、ね、と何度でも繰返す。
(略)
僕が怒ろうと思ってふり向くと、その娘さんは玄関に膝を突いたなり恰も自分の孤独を訴えるように、その黒い眸を僕に向けた。僕はその度に娘さんから、こうして活きていてもたった一人で淋しくって堪らないから、どうぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた。――その眼がだよ。その黒い大きな眸が僕にそう訴えるのだよ」
(略)
「それから。――その娘さんは」
「死んだ。病院へ入って」

(夏目漱石「行人」「友達」三十二~三十三)

(※ 漱石作品は著作権切れにより引用自由です。)


1(2)共通項

前の記事にも書きましたが、「娘さん」と「K」の共通点を再掲します。

・① 養子に出される
(「娘さん」については私の推測。金のために結婚させられたのを養子と同視すれば共通か)
・② しかし親(養親)の意向に沿えない結果となった
・③ ②の結果、親(養親)と不仲に
・④ 精神を病む(Kの神経疲労を見て「先生」は同じ下宿に住まわせた)
・⑤ 家族ではない人間たちと同居
・⑥ ⑤の結果、命を失う
・⑦ 家族ではない同居した者が、本人の親と険悪
(三沢に対する娘さん両親。先生はKの実親にも養親にも(被害妄想的に?)立腹している)
・⑧ (家は)浄土真宗
・⑨ 本名不明
・⑩ たった一人
:三沢が娘さんについて「こうして活きていてもたった一人で淋しくって堪らないから、どうぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた」
:先生がKについて「私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました」
・⑪ 死後に顔に触られている可能性
:Hと一郎によれば三沢が娘さんの「冷たい額へ接吻
:先生「私は突然Kの頭を抱えるように両手で少し持ち上げました


2、視点は本人ではない


2(1)(勝手な)推測

上でも共通項として示しましたが、「前作」にあたる作品において、「たった一人で淋しくってー」という、全く同じフレーズが使われています。これは漱石がなにか意味を込めてしたものだと思われます。

なお私が誤認していたのですが、「たった一人で淋しくってー」とは、本人達がそう発言したものではないということです。

「行人」であれば娘さん本人ではなく、三沢が娘さんの顔を見て勝手に感じていたものです。
「こころ」であればKの発言ではなく、「先生」が勝手に感じ取ったものです。

 同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていた所為でもありましょうが、私の観察は寧ろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向って見ると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑がい出しました。そうして又慄っとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。

(「下 先生と遺書」五十三)

そしてこの

・「本人の発言ではなく、他者がいわば勝手に本人の意思を推測して、それを本人の意思であるかのように別の他者に向けて語っている」

この点も、共通しているのです。

2(2)他者に向けた語り


「別の他者に向けて」とは、「行人」であれば三沢が主人公:長野二郎に向けて語っているものです。「こころ」であれば「遺書」は「私」に向けて書かれたものであり、かつどこかで第三者に公開されることも前提にされています。
「こころ」末尾の一節

 私は私の過去を善悪ともに他の参考に供する積りです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい。」

(「下 先生と遺書」五十六)

つまり、妻(静・お嬢さん)が亡くなるか、あるいは物事が理解できない状況下にあればこの遺書を公開し「他の参考に供」してほしい。そう先生は伝えています。
(※ 複数の読者が指摘してますが、これは先生が「私」に対して「静が生きているかどうかを把握できる立場にいてくれ」と遺言しているわけです。かつ、「私」は先生の遺書を公開したと)


3、「先生」は怪しい?


以上のような「行人」との共通点で考えると、先生の語りは俄然怪しくなります。

「行人」の三沢は、三沢自身にとって都合の良い想像で語っているのは明らかで、本人もその自覚は一応あります。
(さらに言えば私の推察では、これは完全に三沢の妄想で実態とは全く異なると思っています)

それとわざわざ同じフレーズを用いて共通だと示しているということは、先生の語りも、先生にとって都合のいい内容、という事ではないでしょうか。


4、自決するための動機探し?


4(1)先生はたった一人か?

「こころ」については、「K」についても「先生」についても「自殺までしてしまうほどのこと?」との疑問が提示されます。

特に先生についてみれば、Kとは違って好きだった美人のお嬢さんと結婚できたし、働かなくとも生活していける(しかもかなり裕福に)ほどの財産も所持しています。

結婚後も、先生は仕事や社会活動もせず家の中でもなんとなく暗い雰囲気でいる様子ですが、静が離婚を言い出したり夫をいびったりする形跡はありません。
さらにはいきなり崇拝者のように慕ってくれて「先生」と呼んでくれる「私」という存在まで登場しています。

私がKだったら「いやお前が『たった一人で淋しい』とかどんなハイレベルな悩みだよ。本当にモテてない男の前で『私全然モテないですよ』とか言ってる女か!」と突っ込むかもしれません。

4(2)むしろ「一人」ではなくなったから


むしろ先生の自決を見ると「たった一人」だからではなく、逆に「私」という崇拝者で、自分の言うことを何でも聞いてくれそうな人間が登場したことが、決め手の一つになったと思われます。
(他にも、静から「では殉死でもしたら可かろう」と言われたと、わざわざ遺書に先生が書いていることも非常に気になります(先生と遺書・五十五))

まだ私の推察はまとまっていないのですが、とりあえず現時点の思考のメモとして

・先生は何らかの理由で、自決するための動機を探していた
・その先生にとって「既に自決したKが俺と同じ気持ちだったんだ」とあえて他者や「私」に向けて書いて示すことに、なんらかの意味があった

これらの点をここに書いておきたいと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?