夏目漱石「行人」考察59 「行人」の魅力=終わらない推理小説
夏目漱石の長編小説「行人(こうじん)」、大正元年(1912年)連載
私はこの作品をとても面白いと思っているので、「行人」の魅力を語りたい。
(画像は某書店のフェアで珍しく「行人」が並べられていたので思わず撮影したものです。)
1、解けない謎
「行人」の最大の魅力は、「解けない謎」が多数散りばめられている、ということだ。
まず代表的なものを挙げる。
1(1)償うこともできない
(※ 著作権切れにより引用自由です。)
ここで、主人公兼語り手である長野二郎は「取り返す事も償う事もできないこの態度を深く懺悔したい」と述懐している。
しかし、では一体なにが生じたのかについては、なにもふれられないまま「行人」は終わるのだ。
引用の続きは以下のとおりであり、確かに二郎には兄・一郎に対する悪感情はあるが、「償う事もできない」ほどの言動とは思えない。
「行人」は漱石作品の中では比較的長編であり、手持ちの新潮文庫で全465頁になる。
しかし最後まで、この時の二郎の態度によって一体どのような「取り返す事も償う事もできない」事態が生じたのかは、なにも書いていないのである。
1(2)ヒントはある
むろんこの「償う事もできないー」が単なるハッタリ、もしくは企画倒れの可能性もあり得る。アニメで前半だけ人気があった番組のように、いかにも凄い謎があるように見せておきながら超能力か奇跡であっさり片づけて最終回、これと同じかもしれない(特に「行人」は連載途中で胃病のため一旦中断している)。
だが私は夏目漱石は違うと思いたい。
引用した二郎の述懐が「自分は今になって、取り返す事もー」とあるように、「行人」の語りは必ずしもリアルタイムの感想ではない。
語り手の長野二郎が、物語記載の出来事をすべて見届け、さらに一定の時間が経過しなんらかの出来事が生じたうえで、回想を記したものである。
これは「坊っちゃん」や、「こころ」の「上」・「中」と同じ構図だ。
つまり「行人」には時間軸が三つある。
① 物語のリアルタイム進行(二郎が大阪の梅田駅に着く → 岡田の家を訪れる ~ Hからの手紙が届き二郎が読む)
② ①から下記③までの間(数か月かあるいは数年か。どれほどの期間なのかは不明)
③ 二郎が①や②を回想してこの「行人」という文章を書いている時間
この①「物語のリアルタイム進行の出来事」から、③「二郎の回想」に至るまでの間に生じた事柄について、小さなヒントがいくつかある。
それらのヒントを見ていると、「償う事もできないー」とは単なるハッタリではなく、書かれていない背後で夏目漱石がしっかりと構成をした上での記載であると、私には感じられる。
たとえば上記の「取り返す事も償う事もー」の直前
この括弧書きは原文ママである。
つまりどこかで二郎は、この時の一郎の様子について直(嫂)と語り合っている。「姉さん、あの和歌の浦の宿に帰ってからの兄さんってどんな感じでしたかね?」「あれは無理に平静を装おうとする時の雰囲気だったわね」みたく。
しかしそのような場面は「行人」中には出てこない。
出てはこないがこの括弧書きにより以下の事実がわかる。
・「直と二郎がこの時の一郎の様子について気にしておりどこかで語り合っていたこと」
・「直と二郎との間にそのようなあまり他の家族に聞かれたくないであろう話をする機会が存在したこと」
・「直がかつての和歌山の宿で、一郎の精神状態に着目しており、記憶もしていること」
さらに言ってしまえば
・「少なくとも二郎と振り返って語り合いをしている時点で直が存命であること」
これも示されたといえる。
いきなり「存命」とか極端な物言いと見えるかもしれないが、そもそも「取り返す事も償う事もできない」、「深く懺悔したい」事態が生じているのである。誰かあるいは複数人が寿命以外で死去に至った可能性もある(むしろ私はそれを確信している)。
1(3)ヒント2
もう一つ、引用の「(嫂に評させるとー)」以外にも、二郎が物語記載の出来事以降に、他者と振り返りの会話をしている描写がある。
中盤、二郎と妹・お重(おしげ)とのきょうだい喧嘩
この引用末尾の「自分は今でもー お重はまたー」との記載から、二郎はお重とも「物語記載の出来事が終わった以降(時間軸②)の時点で、振り返って語り合っていた」事実がわかる。
そして、直についてふれたようにここでもお重について「少なくとも振り返りの時点までは存命であった」こともわかる。
もっといえば「どうしても忘れ得ないそうである。」との書きようからは、二郎がこの「行人」を書いている時間軸③の時点においても、お重は存命であると思われる。
1(4)二つのヒントから見える別のヒント
こうして見たように、直やお重と二郎が、物語記載の出来事以降に振り返りをしている。
そのような物語リアルタイム進行以降における振り返りが記載されている相手は、直と、お重の、2人のみである。
「行人」には直やお重との振り返り以外にも、「この『行人』の地の文はリアルタイムの感想ではなく、長野二郎の回想記である」ことを示す箇所はいくつかある。
しかし「振り返って話した」ことが記載されているのは直とお重のみで、他の家族や友人知人との振り返りの記載はない。
このことから次の可能性が想起できる
・直、お重、長野二郎以外の主要登場人物は、時間軸②の時点で、全員死んだ
むろんこれはあくまで可能性であり、そうなったとする記載はどこにもない。
しかし繰り返すが「取り返す事も償う事もできない」「深く懺悔したい」事態がなにか生じたはずである。家族や関係者たちが集まった場があってもよさそうだ。
それなのに「以前の出来事を振り返って話をした」記載が、わずか2名しか示されていない。
「この2名と語り手以外は全員死去」との可能性がどの程度あるかはともかくとして、「この人物は死去しているのか?」との観点で注意して読み、考えたくはならないだろうか。
私はこの観点で見ていたら、直とお重については振り返りの記載があるのに、この二人の対立に巻き込まれた長野父の心理状態が、二郎の推察でしか書かれていないことに気付いた。
ここで、父親の心理が二郎の推察でしか書かれていないことに鑑みれば、長野父は振り返りの会話を二郎とする前に、既に死去したとの解釈も可能になる。
このように、「行人」はどこまでも推理ができる。それが魅力だ。
2、謎がいっぱい
他にも「行人」には謎がいっぱいある。
すぐ前で引用した「帰ってから 十」では次の疑問も浮かぶ。
・なぜ長野父は、自分の娘が嫁から泣かされたのに嫁になにも注意しないのか?
またこの「帰ってから 十」後半における、直とお重との会話 → 長野父の部屋における父とお重との会話は、おそらく二郎が直接目撃したものではないだろう。
「行人」において、語り手・長野二郎の目を離れた唯一の場面が、ここなのである。
他にも三沢の回想話やHからの手紙記載の内容でも二郎はそこに臨場はしていないが、話を聞く・手紙を読むという形で存在している。
しかしこの「帰ってから 十」の末尾だけが、何故か二郎の目から完全に離れているのだ。むろん誰かから二郎が聞いたのであろうが、それが誰なのかも示されていない。
ちなみに漱石の他作品「三四郎」において、最終盤の絵画展覧会、開催時の様子や開会前日に画家の原口が検分したり、二日目にまず里見美禰子と新婚の夫とが2人で来る描写がある。ここが小説内おいて唯一、語り手が三四郎から完全に離れた地点にいる - そう石原千秋氏が指摘したそうである。
(小林十之助氏のnoteで知りました)
それと同様に、「行人」では中盤のほんの一場面だけ、二郎がそこから消えているのである。この意味はなんだろう。
そして上記以外にも謎がたくさんあり、例えば兄が弟に向かって「二郎お前はお父さんの子だね」(「帰ってから」二十一)と妙な事を言い出すのである。
それも兄の名は「一郎」、弟の名は「二郎」。
このように「行人」には正解がわからない、しかし考えることが可能な謎が多数つめこまれている。
私はこれは夏目漱石が綿密に考えて書いたものだと思っている。
漱石のパズルを解き続けることが、楽しい。
これが「行人」の魅力である。
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