見出し画像

夏目漱石「行人」考察59 「行人」の魅力=終わらない推理小説

夏目漱石の長編小説「行人(こうじん)」、大正元年(1912年)連載

私はこの作品をとても面白いと思っているので、「行人」の魅力を語りたい。

(画像は某書店のフェアで珍しく「行人」が並べられていたので思わず撮影したものです。)



1、解けない謎


「行人」の最大の魅力は、「解けない謎」が多数散りばめられている、ということだ。

まず代表的なものを挙げる。

1(1)償うこともできない

 自分はこの時の自分の心理状態を解剖して、今から顧みると、兄に調戯うというほどでもないが、多少彼を焦らす気味でいたのはたしかであると自白せざるを得ない。もっとも自分がなぜそれほど兄に対して大胆になり得たかは、我ながら解らない。恐らく嫂の態度が知らぬ間に自分に乗り移っていたものだろう。自分は今になって、取り返す事も償う事もできないこの態度を深く懺悔したいと思う
 自分が巻莨を吹かして黙っていると兄ははたして「二郎」と呼びかけた。
「お前直の性質が解ったかい」
「解りません」

(「兄」四十二)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

ここで、主人公兼語り手である長野二郎は「取り返す事も償う事もできないこの態度を深く懺悔したい」と述懐している。

しかし、では一体なにが生じたのかについては、なにもふれられないまま「行人」は終わるのだ。

引用の続きは以下のとおりであり、確かに二郎には兄・一郎に対する悪感情はあるが、「償う事もできない」ほどの言動とは思えない。

 すると兄が急に首を上げた。
「二郎何とか云わないか」と励しい言葉を自分の鼓膜に射込んだ。自分はその声でまたはっと平生の自分に返った。
「今云おうと思ってるところです。しかし事が複雑なだけに、何から話して好いか解らないんでちょっと困ってるんです。兄さんもほかの事たあ違うんだから、もう少し打ち解けてゆっくり聞いて下さらなくっちゃ。そう裁判所みたように生真面目に叱りつけられちゃ、せっかく咽喉まで出かかったものも、辟易して引込んじまいますから」
 自分がこう云うと、兄はさすがに一見識ある人だけあって、「ああそうかおれが悪かった。お前が性急の上へ持って来て、おれが癇癪持と来ているから、つい変にもなるんだろう。二郎、それじゃいつゆっくり話される。ゆっくり聞く事なら今でもおれにはできるつもりだが」と云った。
「まあ東京へ帰るまで待って下さい。東京へ帰るたって、あすの晩の急行だから、もう直です。その上で落ちついて僕の考えも申し上げたいと思ってますから」
「それでも好い」
 兄は落ちついて答えた。今までの彼の癇癪を自分の信用で吹き払い得たごとくに。
「ではどうか、そう願います」と云って自分が立ちかけた時、兄は「ああ」と肯ずいて見せたが、自分が敷居を跨ぐ拍子に「おい二郎」とまた呼び戻した。
「詳しい事は追って東京で聞くとして、ただ一言だけ要領を聞いておこうか」
「姉さんについて……」
「無論」
「姉さんの人格について、御疑いになるところはまるでありません」
 自分がこう云った時、兄は急に色を変えた。けれども何にも云わなかった。自分はそれぎり席を立ってしまった。

(「兄」四十三)


「行人」は漱石作品の中では比較的長編であり、手持ちの新潮文庫で全465頁になる。
しかし最後まで、この時の二郎の態度によって一体どのような「取り返す事も償う事もできない」事態が生じたのかは、なにも書いていないのである。


1(2)ヒントはある


むろんこの「償う事もできないー」が単なるハッタリ、もしくは企画倒れの可能性もあり得る。アニメで前半だけ人気があった番組のように、いかにも凄い謎があるように見せておきながら超能力か奇跡であっさり片づけて最終回、これと同じかもしれない(特に「行人」は連載途中で胃病のため一旦中断している)。

だが私は夏目漱石は違うと思いたい。

引用した二郎の述懐が「自分は今になって、取り返す事もー」とあるように、「行人」の語りは必ずしもリアルタイムの感想ではない。
語り手の長野二郎が、物語記載の出来事をすべて見届け、さらに一定の時間が経過しなんらかの出来事が生じたうえで、回想を記したものである。
これは「坊っちゃん」や、「こころ」の「上」・「中」と同じ構図だ。


つまり「行人」には時間軸が三つある。

① 物語のリアルタイム進行(二郎が大阪の梅田駅に着く → 岡田の家を訪れる ~ Hからの手紙が届き二郎が読む)
② ①から下記③までの間(数か月かあるいは数年か。どれほどの期間なのかは不明)
③ 二郎が①や②を回想してこの「行人」という文章を書いている時間


この①「物語のリアルタイム進行の出来事」から、③「二郎の回想」に至るまでの間に生じた事柄について、小さなヒントがいくつかある。

それらのヒントを見ていると、「償う事もできないー」とは単なるハッタリではなく、書かれていない背後で夏目漱石がしっかりと構成をした上での記載であると、私には感じられる。

たとえば上記の「取り返す事も償う事もー」の直前

 自分が兄から別室に呼出されたのはそれが済んでしばらくしてであった。その時兄は常に変らない様子をして、(嫂に評させると常に変らない様子を装って、)「二郎ちょっと話がある。あっちの室へ来てくれ」と穏かに云った。自分はおとなしく「はい」と答えて立った。

(「兄」四十二)

この括弧書きは原文ママである。

つまりどこかで二郎は、この時の一郎の様子について直(嫂)と語り合っている。「姉さん、あの和歌の浦の宿に帰ってからの兄さんってどんな感じでしたかね?」「あれは無理に平静を装おうとする時の雰囲気だったわね」みたく。

しかしそのような場面は「行人」中には出てこない。
出てはこないがこの括弧書きにより以下の事実がわかる。

・「直と二郎がこの時の一郎の様子について気にしておりどこかで語り合っていたこと」
・「直と二郎との間にそのようなあまり他の家族に聞かれたくないであろう話をする機会が存在したこと」
・「直がかつての和歌山の宿で、一郎の精神状態に着目しており、記憶もしていること」

さらに言ってしまえば
・「少なくとも二郎と振り返って語り合いをしている時点で直が存命であること
これも示されたといえる。

いきなり「存命」とか極端な物言いと見えるかもしれないが、そもそも「取り返す事も償う事もできない」、「深く懺悔したい」事態が生じているのである。誰かあるいは複数人が寿命以外で死去に至った可能性もある(むしろ私はそれを確信している)。


1(3)ヒント2


もう一つ、引用の「(嫂に評させるとー)」以外にも、二郎が物語記載の出来事以降に、他者と振り返りの会話をしている描写がある。

中盤、二郎と妹・お重(おしげ)とのきょうだい喧嘩

「だから私に早く嫁に行けなんて余計な事を云わないで、あなたこそ早くあなたの好きな嫂さんみたような方をお貰いなすったら好いじゃありませんか」
 自分は平手でお重の頭を一つ張りつけてやりたかった。けれども家中騒ぎ廻られるのが怖いんで、容易に手は出せなかった。
「じゃお前も早く兄さんみたような学者を探して嫁に行ったら好かろう」
 お重はこの言葉を聞くや否や、急に掴みかかりかねまじき凄じい勢いを示した。そうして涙の途切れ目途切れ目に、彼女の結婚がお貞さんより後れたので、それでこんなに愚弄されるのだと言明した末、自分を兄妹に同情のない野蛮人だと評した。自分も固より彼女の相手になり得るほどの悪口家であった。けれども最後にとうとう根気負けがして黙ってしまった。それでも彼女は自分の傍を去らなかった。そうして事実は無論の事、事実が生んだ飛んでもない想像まで縦横に喋舌り廻してやまなかった。その中で彼女の最も得意とする主題は、何でもかでも自分と嫂とを結びつけて当て擦るという悪い意地であった。自分はそれが何より厭であった。自分はその時心の中で、どんなお多福でも構わないから、お重より早く結婚して、この夫婦関係がどうだの、男女の愛がどうだのと囀る女を、たった一人後に取り残してやりたい気がした。それからその方がまた実際母の心配する通り、兄夫婦にも都合が好かろうと真面目に考えても見た。
 自分は今でも雨に叩かれたようなお重の仏頂面を覚えている。お重はまた石鹸を溶いた金盥の中に顔を突込んだとしか思われない自分の異な顔を、どうしても忘れ得ないそうである

(「帰ってから」九)

この引用末尾の「自分は今でもー お重はまたー」との記載から、二郎はお重とも「物語記載の出来事が終わった以降(時間軸②)の時点で、振り返って語り合っていた」事実がわかる。

そして、直についてふれたようにここでもお重について「少なくとも振り返りの時点までは存命であった」こともわかる。

もっといえば「どうしても忘れ得ないそうである。」との書きようからは、二郎がこの「行人」を書いている時間軸③の時点においても、お重は存命であると思われる。


1(4)二つのヒントから見える別のヒント


こうして見たように、直やお重と二郎が、物語記載の出来事以降に振り返りをしている。
そのような物語リアルタイム進行以降における振り返りが記載されている相手は、直と、お重の、2人のみである。

「行人」には直やお重との振り返り以外にも、「この『行人』の地の文はリアルタイムの感想ではなく、長野二郎の回想記である」ことを示す箇所はいくつかある。
しかし「振り返って話した」ことが記載されているのは直とお重のみで、他の家族や友人知人との振り返りの記載はない。

このことから次の可能性が想起できる

直、お重、長野二郎以外の主要登場人物は、時間軸②の時点で、全員死んだ


むろんこれはあくまで可能性であり、そうなったとする記載はどこにもない。

しかし繰り返すが「取り返す事も償う事もできない」「深く懺悔したい」事態がなにか生じたはずである。家族や関係者たちが集まった場があってもよさそうだ。
それなのに「以前の出来事を振り返って話をした」記載が、わずか2名しか示されていない。

「この2名と語り手以外は全員死去」との可能性がどの程度あるかはともかくとして、「この人物は死去しているのか?」との観点で注意して読み、考えたくはならないだろうか。

私はこの観点で見ていたら、直とお重については振り返りの記載があるのに、この二人の対立に巻き込まれた長野父の心理状態が、二郎の推察でしか書かれていないことに気付いた。

「お重さんこれお貞さんのよ。好いでしょう。あなたも早く佐野さんみたような方の所へいらっしゃいよ」と嫂は縫っていた着物を裏表引繰返して見せた。その態度がお重には見せびらかしの面当てのように聞えた。早く嫁に行く先をきめて、こんなものでも縫う覚悟でもしろという謎にも取れた。いつまで小姑の地位を利用して人を苛虐るんだという諷刺とも解釈された。最後に佐野さんのような人の所へ嫁に行けと云われたのがもっとも神経に障った。
 彼女は泣きながら父の室に訴えに行った。父は面倒だと思ったのだろう、嫂には一言も聞糺さずに、翌日お重を連れて三越へ出かけた。

(「帰ってから」十)

ここで、父親の心理が二郎の推察でしか書かれていないことに鑑みれば、長野父は振り返りの会話を二郎とする前に、既に死去したとの解釈も可能になる。

このように、「行人」はどこまでも推理ができる。それが魅力だ。


2、謎がいっぱい


他にも「行人」には謎がいっぱいある。

すぐ前で引用した「帰ってから 十」では次の疑問も浮かぶ。

・なぜ長野父は、自分の娘が嫁から泣かされたのに嫁になにも注意しないのか?

またこの「帰ってから 十」後半における、直とお重との会話 → 長野父の部屋における父とお重との会話は、おそらく二郎が直接目撃したものではないだろう。
「行人」において、語り手・長野二郎の目を離れた唯一の場面が、ここなのである。

他にも三沢の回想話やHからの手紙記載の内容でも二郎はそこに臨場はしていないが、話を聞く・手紙を読むという形で存在している。
しかしこの「帰ってから 十」の末尾だけが、何故か二郎の目から完全に離れているのだ。むろん誰かから二郎が聞いたのであろうが、それが誰なのかも示されていない。

ちなみに漱石の他作品「三四郎」において、最終盤の絵画展覧会、開催時の様子や開会前日に画家の原口が検分したり、二日目にまず里見美禰子と新婚の夫とが2人で来る描写がある。ここが小説内おいて唯一、語り手が三四郎から完全に離れた地点にいる - そう石原千秋氏が指摘したそうである。
(小林十之助氏のnoteで知りました)

それと同様に、「行人」では中盤のほんの一場面だけ、二郎がそこから消えているのである。この意味はなんだろう。

そして上記以外にも謎がたくさんあり、例えば兄が弟に向かって「二郎お前はお父さんの子だね」(「帰ってから」二十一)と妙な事を言い出すのである。
それも兄の名は「一郎」、弟の名は「二郎」。


このように「行人」には正解がわからない、しかし考えることが可能な謎が多数つめこまれている。

私はこれは夏目漱石が綿密に考えて書いたものだと思っている。
漱石のパズルを解き続けることが、楽しい。

これが「行人」の魅力である。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?