夏目漱石「坊っちゃん」⑯ 坊っちゃんは天皇である

夏目漱石の有名作品「坊っちゃん」、1906年(明治39年)発表。

「坊っちゃん」は、夏目漱石が松山中学に英語教師として赴任していた経験も一つの材料として書かれており、登場人物のモデルが話題になることもある。

それについて私はこう唱える
「主人公である坊っちゃんのモデルは、明治天皇だ」


1、「江戸」の投影


私のおかしな考察はとりあえず置いておいて、「坊っちゃん」については、概要こう分析されることがある。

「明治維新によって敗れてしまった側・過ぎ去ってしまった江戸時代へのノスタルジー」と。

1(1)江戸一派

確かにそれはわかる。
「坊っちゃん」の登場人物から乱暴に「善玉」を選べば以下の3人だ。

①主人公の坊っちゃん
②坊っちゃんとともに赤シャツと野だいこを殴打した「山嵐」
③坊っちゃんに唯一愛情を注いでくれた清

この3人は、揃って江戸幕府側・佐幕派にみえる。

まず、①坊っちゃん

このままに済ましてはおれの顔にかかわる。江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻っ垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。

(四)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

このように「江戸っ子」・「旗本」と江戸を強調している。「土百姓とは生まれからして違う」も、明治の「四民平等」を否定し封建社会ぽい発想だ。

続いて、②山嵐

「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は会津だ
会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」

(九)

山嵐は「会津」と旧国名で語り出す。坊っちゃんもここでも「江戸っ子」を自称する。
会津藩は白虎隊の悲劇でも有名な、戊辰戦争で最後まで新政府軍に抵抗した勢力の一つである。
さらには「負け惜しみが強い」も、戊辰戦争で負けた側であることを想起させなくもない。

最後に、③清

この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするようになったのだと聞いている。だから婆さんである。

(一)

ここで「瓦解(がかい)」とは明治維新のことである。
「瓦のくずれ落ちることが屋根全体に及ぶように、ある一部乱れ破れ目広がって組織全体がこわれること」
だそうだ。

語り手である坊っちゃんは、いわゆる明治維新を「瓦解」と、完全に江戸幕府体制側の視点で語っている。
かつその瓦解により、由緒ある育ちで合った清が、住み込み下女にまで落ちぶれてしまったのである。
(住み込み下女の貧しさについては、小林十之助氏に教えてもらった。住居と食事が保証されているがそれ以外はほんのわずかな給金しかなかったと。改めて考えれば「明暗」のお延は庶民のはずだが、住み込み下女の「時(とき)」を完全に目下の階層として扱っていた)

これらをみれば、確かに「敗れてしまった・過ぎ去ってしまった江戸」への判官びいきの構図も一応は見える。

しかし、では悪玉側はどうだろう。


1(2)とても薩長ではない悪役


「坊っちゃん」の悪役といえば、①赤シャツ、②野だいこ、③狸(校長)この3人である。

仮に坊っちゃん達を「江戸・佐幕派」だとすれば、赤シャツらは「薩長・明治新政府側」でなければならない。
しかしあまりそうは見えない。

① 赤シャツは、作者:夏目漱石と同じく帝国大学(東大)文学部卒業である。
文学かぶれなところは一応「新時代」ぽくも見える。
しかしその点でいえば、坊っちゃんと山嵐も「数学教師」であるし(江戸時代の日本にも数学オリンピック的なイベントはあったらしいが)、特に坊っちゃんは「物理学校」の卒業生だ。これも十分に「新時代」の存在である。

ちなみに赤シャツは「流れ者」とされているが、ではどこの出身でどんな経緯で四国に来たのかは示されていない(これが鹿児島か山口出身なら露骨だが)。ただ帝大卒業である以上、東京で数年間以上生活していたことになる。これも坊っちゃんとの共通点だ。

赤シャツは少なくとも属性としては、坊っちゃんと対になる人物設定ではない。

② 野だいこ(美術教師)に至っては、坊っちゃんと同じく江戸っ子である。これも対にはなっていない

③ 狸(校長)については経歴出身は不明。しかし特に「薩長」であるとか、「江戸幕府ではなく明治新政府」な要素は感じられない。


これらに鑑みれば、片面的に「敗れた江戸へのオマージュ」とはいえるかもしれないが、少なくとも「明治の新時代との対立」まではない。


1(3)坊っちゃんこそ新時代のインテリ


さらに言えば、坊っちゃんは江戸っ子を自称しているがよく見たら旧時代への郷愁どころか、立派な「新時代のインテリ」・「明治の知識人」なのである。

既にふれたように、坊っちゃんは「東京の物理学校卒業」という、新時代の教育を受けた人間だ。

 幸い物理学校の前を通り掛かかったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。
 三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。

(一)

坊っちゃんは口調が江戸っ子のようで、かつ行動もあまりインテリでなさそうだが、新時代ならではの高度な教育を自身で選択し、しっかり勉強をしてちゃんと卒業もしているのだ。その上でさらに新時代の教育システム(旧制中学)にも「数学教師」として携わっている。

実は坊っちゃんは「明治の新時代の知識人」なのである。雰囲気はまったく違うが。
「三四郎」で帝大の研究員?として物理の研究をしている野々宮宗八が経歴としては近い。

そういえば「こころ」で、先生の高等学校時代に同じ学校の生徒が「夜中職人と喧嘩をして相手の頭へ下駄で傷を負わせた」とのエピソードが出て来る(「下 先生と遺書」四)。坊っちゃんもこのような暴れる新進エリートか。


坊っちゃんは決して「過ぎ去った江戸」のみを体現してはいない。


2、坊っちゃんと明治天皇


「明治と江戸の対立」は否定した。ここから坊っちゃんが明治天皇であることを語る。

2(1)「親譲り」の「無鉄砲」


「坊っちゃん」について、多くの人が知っているのに多くの人が説明できないことがある。

 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。

(一)

多くの人がっ聞いた事があるであろう「坊っちゃん」の冒頭。

しかし、坊っちゃんの「親」が無鉄砲であるかのような描写は、なにもないのだ。

坊っちゃんの母は序盤で病気で亡くなり、その「六年後の正月」に父も卒倒で亡くなる。
二人とも坊っちゃんに対して愛情がなさそうなのが疑問点ではあるが、少なくとも「無鉄砲」ではない。ついでに言えば「損」もしてなさそうだ。

ここで明治天皇の父親である、第121代:孝明天皇を見てみる。

1831年(天保2年)生、1846年に10代半ばで即位。
1867年(慶応2年)崩御。30代半ばで死去している。

1853年、ペリーが浦賀にやってきたが、孝明天皇は鎖国維持・攘夷を主張した。後の日米修好通商条約にも勅許しなかったという。
以降も強硬さこそ低下したものの、死去するまで「(軍備が整えば)攘夷実行」を期待し続けたと。

後世の一般人である私が後出しであることを承知でいえば、このような孝明天皇の姿勢こそ「無鉄砲」ではないか。

いま思いついたが、ペリーが黒船で「大砲」を突き付けて日本に開国・不平等条約を迫ったのに対し、攘夷を要求し続けるのが、無「鉄砲」と、大砲と対比されているかもしれない。

そして上記のように、孝明天皇は満年齢で35歳で若くして崩御している。
死因は天然痘とされている。
この点も、坊っちゃんの父親がおそらく若くして病死したこととも重なる。


2(2)小供の時から損


ここでようやく、明治天皇を見てみる。
1852年(嘉永5年)生誕。母は中山慶子(よしこ)。

以降はウィキペディア頼みの記載であるが、なかなか色々あるのだ。「小供の時から」どころか産まれる前から。

・母の生家の中山家(公家)では、天皇の皇子を出産するための産屋建築が自前ではできず借金をする。

・出生後はしばらく中山家で育成されたが費用が大変だった。

・四歳で中山家から御所に移される。しばらく精神的に不安定になった。

(このあたりの子供の頃から転々とさせられた感じは、養子→復籍・それをめぐるトラブルを経験した夏目漱石本人にも似ている)

・尊王攘夷をめぐる朝廷・京都の動乱に巻き込まれ、母方の祖父である中山家も謹慎を命じられる

・1864年、禁門の変。あやうく父の孝明天皇とともに連れ去られる危機に。

・1867年(慶応2年)孝明天皇崩御。
→ 14歳で即位することに。同年、大政奉還、王政復古の大号令

・1868年、鳥羽伏見の戦い、「明治」への改元。
さらにこの年、遷都よりも前に一時滞在として、江戸から「東京」へと名を変えた東京まで行幸し、一時滞在。なんとこれが日本の歴史上はじめて天皇が関東地方まで足を運んだ事例と。

・1869年、伊勢神宮を参拝。なんとこれもまた、歴史上初の天皇の伊勢神宮参拝であると(持統天皇は690年頃に伊勢への行幸はしたが伊勢神宮を訪れたとの明記はないと)。

(いま「東京遷都はいつなのか」を調べていたのだが、どうも明確に「これからは天皇の住居を京都ではなく東京にします」と正式決定したものはなさそうなのだ。そのような公表をすれば京都市民の混乱・暴動を招くからであろうか。)

・1873年、明治六年の政変(征韓論問題)西郷隆盛が下野したことにより多くの臣下の反発を招いたと。ちなみにこの時まだ満21歳である。

・1877(明治10)年、西南戦争。「こころ」でもふれられている。

・1889(明治22)年、憲法発布。「三四郎」でもふれられている。
(あらためて確認して、明治は22年の間、憲法なしで国政がすべて運営されていたことに驚いた。)

・1894(明治27)年、日清戦争勃発。「こころ」で、「お嬢さん(静)」の父親は「日清戦争のときかなにかに死んだ」と。

・1904(明治37)年、日露戦争。「三四郎」で汽車で乗り合わせた「爺さん」が堂々と批判している。

・1909(明治42)年、伊藤博文がハルビンで暗殺される。「門」でもふれられている。

・1912(明治45)年7月30日、崩御。享年59歳。
「こころ」でもふれられている。

 崩御の報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己も……」
 父はその後をいわなかった。
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿の球を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。旗も黒いひらひらも、風のない空気のなかにだらりと下がった。私の宅の古い門の屋根は藁で葺いてあった。雨や風に打たれたりまた吹かれたりしたその藁の色はとくに変色して、薄く灰色を帯びた上に、所々の凸凹さえ眼に着いた。私はひとり門の外へ出て、黒いひらひらと、白いめりんすの地と、地のなかに染め出した赤い日の丸の色とを眺ながめた。それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた。

(「中 両親と私」五)

 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白に妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。

(「下 先生と遺書」五十五)

長くなったのでとりあえずここまで。


いいなと思ったら応援しよう!