夏目漱石「行人」考察(38)直と松本零士
夏目漱石「行人」。主人公:長野二郎を誘惑しまくる嫂(兄嫁):直。
前回に引き続き、直の誘惑をどしどし考察していこう。
前回は和歌山の「料理屋」までの話を書いた。
今回はそこから先、暴風雨で二人が元の宿に帰れなくなった以降の話。
1、宿泊もOK?
1(1)私「女」よ
和歌山の「料理屋」に二人でいる最中。暴風雨により戻れなくなったと店の下女から知らされる。
その際の反応
直はここで連続して自分が「女」だと強調している。
その上で、あくまで決断の責任は二郎に任せると。つい先ほどには上から目線で二郎をからかっていた時もあったが、ここではあくまで男である二郎に判断を委ね、自分はそれに従うと強調している。
良くも悪くも「女」であることを前面に出しているといえる。状況が緊急事態だからこそよりアピールの強さが感じられる。
ちなみに「行人」中盤以降の「女景清」の話でも、直は自分が「女」だとアピールして、一郎の語る男女論にすぐさま不同意を示している。人前でだ。
これは直の得意技なのか。
1(2)直と松本零士
話は飛ぶが、松本零士(「銀河鉄道999」「宇宙戦艦ヤマト」の原作者)のあまり有名ではないマンガに「聖凡人伝」というのがある。
全くさえない男の主人公がなぜか顔もスタイルも良い女性に毎回毎回迫られるという展開。
記憶ではある回で、どこか密室で女性と二人切りになってしまった主人公が遠慮気味に「でも俺男だよ」、すぐに女性が「あら私女よ」と返した場面がある。たぶん女性はヒロインの「早名さん」だったと思う。
直の「妾女だから」の台詞にこの場面を思い出した。
1(3)あでやかと提灯と傘
話を「行人」戻すが、ここへ来て初めて直の服装が「あでやか」だと明かされる。
この日の外出は「兄・二十七」から描写されているので、8章目でようやく服装(の印象)が明かされたと。「信頼できない語り手」二郎らしいやり口だ。
そしてまたどこかで詳しくふれたいが、この日、直と二郎が二人で外出することは一郎の「プログラム」であり、直も前日か当日朝の時点で聞かされていたはずである。その上で「あでやか」な服にしたと。
(さらにいえば、一郎の差し金で二郎が動いていることを直は(ほぼ間違いなく)承知で、誘惑まがいを繰り返しているのだ。またふれたい)
「絹張の傘」も同様。これは「二十七」でも直が持っていたと出てくるがその時は単に「傘」とだけ書かれていた。
ちなみにそれが何かわからないので「絹張の傘」で検索したら12,500円~13,750円と。時代劇で江戸の侍(浪人ではなく)が持っていそうな傘を高級にした感じだった。高価な物らしい。
そして当然だがこの時の「車夫の提灯」には、後に(物語中の3月17日)直が二郎の下宿に来た際のようには直の里方の「定紋」はついていなかったと(「塵労」四)。
(あるいはあれは直が下宿からの去り際に二郎にこの和歌山の暴風雨を思い出させようとした?)
1(4)謎の電話
ここで二郎は気が動転もしくは興奮していて風を気にする様子もなかったが、直は比較的冷静だったと。少なくとも二郎はそう書いている。
次の電話の話が不審になっている。
この「不思議に向うで二言三言何か云った様な気がする」とはなんなのだろう。
和歌山で暴風雨に遭ったのは漱石の実体験らしいので、実際にそんなことがあったのを書いただけで深い意味はないのだろうか。
これは二郎が「実は電話通じたのに通じていないふりをした」とも考えられる。しかしそれだと「又薩張通じなくなった」が完全な虚偽となってしまう。また電話が通じるか通じないかでわざわざ嘘をつく意味もないと思われる。
そして直が落ち付いた感じで「大方そんな事だろうと思った」と、二郎の行動を読み切ったように軽い感じで語ったのもよくわからない。
二郎が一郎や綱となんとか連絡しようとしていたのに対し、直はその二人と遮断された状況を楽しみたいということだろうか。あるいは二郎がそう見せたくて書いているのか。
1(5)いま、帯を解いているアイドル
そして停電となる。
暴風雨、宿に帰れない、停電、それも旅先の知らない宿。
これらの非日常と恐怖とがセットになった状況。
この状況下で直は見事すぎる
・「名を呼ばれてもしばらく無視」で二郎をあせらす
・「手でさわって御覧なさい」と性的な挑発
・暗闇で帯の音を聞かせ、「脱いでる?」と思わせ、かつ何してるんですと聞かれてもすぐには答えない
・「今帯を解いている(=脱ごうとしている)ところ」と教え、暗闇で再び帯の音を聞かせる
まるで暗闇になることを予期していたかのように、「声」もしくは「沈黙」と、「音」により二郎をゆさぶる。
そしてこの後、宿の下女が蠟燭を持って来るのだが、その時点で直はどういう状況だったのか、着替え終わったのか途中なのか着替えるのをやめたのか、何も書かれていない。
暗闇の中で直は、「そろそろ下女が蝋燭なり行燈なりを持って来るでしょう」と予期しながら、あえて帯を解く音を二郎に聞かせてみせたのか。
2、一郎に報告できなくさせるため?
また詳しく述べたいが、直は二郎との外出が一郎のプログラムによるものであることをおそらく百も承知で、その上で二郎に挑発を繰り返している。
なんのために? 二郎にまともな報告を一郎にさせないために。虚偽もしくは報告できにくくするため。
それにより兄弟の不仲と、一郎の疑心暗鬼とをさらに悪化させて追い詰めるため。
いくら二郎でも、「兄さん、嫂さんはですね、停電で暗くなった時『手でさわって御覧なさい』と言って、帯を解く音を僕に聞かせて、僕が何してるんですかと聞いたら『帯を解いてるところ』と答えてましたよ。あれには僕も思わずさわろうかと思いましたよ。兄さん以上です」とは報告できまい。