漱石「こころ」考察25 電報も嘘?

夏目漱石の有名作品「こころ」、大正三年(1914年)連載。

この「こころ」について気になる点があるので、前回に続いて備忘録的にメモを。

今回は「電報がやたらと多い」という点


1、最初と最後の電報


「こころ」には、妙に「電報」が多数出てくる。

1(1)最初の電報が虚偽なら最後も、、

冒頭第一章、第二段落から電報の話がある。

 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書を受け取ったので、私は多少の金を工面して、出掛ける事にした。私は金の工面に二、三日を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった友達はかねてから国元にいる親たちに勧まない結婚を強いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。

(「上 先生と私」一)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

ちなみに「こころ」において最初に登場する電報が、引用のように「虚偽の中身で遠方から身内を呼び付けようとするもの」である可能性が示されている。

そして「こころ」記載の複数ある電報において、最後に登場するのは以下のものである。Kが自殺?をした直後のもの。なおあくまで小説に記された順であり、物語内の時系列順とは異なる。

 奥さんと私はできるだけの手際と工夫を用いて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸い彼の蒲団に吸収されてしまったので、畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末はまだ楽でした。二人は彼の死骸を私の室に入れて、不断の通り寝ている体に横にしました。私はそれから彼の実家へ電報を打ちに出たのです

(「下 先生と遺書」五十)


なお、私は「こころ」におけるKの自殺について「自殺を図ったのはKだがまだ死に切れていなかったところを、先生がとどめをさして殺した」と、勝手に解釈している。

この電報の話も、その根拠になると考える。
物語の記載順で最後に登場する電報も、冒頭のそれと同様に「遠方から身内を呼び付けようとするもの」である。

そして冒頭の電報は、おそらく内容が虚偽である可能性が示されている(なおこれが実際はどうであったのかの説明は、ない)。

そうであれば最後に登場した電報、つまり先生がKの実家に対して「Kが自殺した」旨を知らせたであろう電報も、内容に虚偽がある、そうつながらないだろうか。

つまり、Kは自殺ではない。先生が殺したのだと。


2、第二の電報と返答


続いて物語登場順で第二の電報だが、妙に電報についてあれこれ迷ったことが記されている。

「私」が大学を卒業して実家に戻り、父親が徐々に死期に迫っていく最中。

 私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒した。医者は絶対に安臥を命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そうであった。私は兄と妹に電報を打つ用意をした
(略)

 父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私はその間に長い手紙を九州にいる兄宛で出した。妹へは母から出させた。私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる最後の音信だろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた
 兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼らないうちに呼び寄せる自由は利かなかった。といって、折角都合して来たには来たが、間に合わなかったといわれるのも辛つらかった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた
(略)
 その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父と相談して、とうとう兄と妹に電報を打った。兄からはすぐ行くという返事が来た。妹の夫からも立つという報知(しらせ)があった。

(「中 両親と私」九、十)

ここで電報についてそれを打つ前に、「用意をした」、「いよいよという場合には電報を打つ」、「時機について責任を感じた」、と何度もわざわざ描写されている意味はなんなのだろう。
私はもう「Kは他殺」と思っているのでこれもなにかの暗示ではないかと思うのだが、まだよくわからない。

さらにここで電報への対応が差があるように描写されている

・兄は「すぐ行くという返事
・妹の夫が「立つという報知(しらせ)」

ほぼ同じ内容とも思えるが、これがわざわざ描き分けられている意味はなんなのだろう。妹の夫のほうが比較的のんびり対応したということを示しているのだろうか。
ちなみに実家への到着は「兄と前後して着いた妹の夫」(中・十二)とあるのであまりずれはなさそうであるが。


3、第3から第5の電報


そして同じく「中」において、実家にいる「私」と東京の先生とが電報で交信を重ねる。

 乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった。
(略)
 悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹や草を震わせている最中に、突然私は一通の電報を先生から受け取った。洋服を着た人を見ると犬が吠えるような所では、一通の電報すら大事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのを傍に立って待っていた。
 電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。
「きっとお頼もうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
 私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や妹の夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣って、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤に陥りつつある旨も付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細手紙として、細かい事情をその日のうちに認めて郵便で出した。頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間の悪い時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。
十三
 私の書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛で届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。
「大方手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」

(「中 両親と私」十二、十三)

ここでは、先生から私、私から先生、また先生から私、と計三度もの電報が取り交わされている。
さらに田舎では「一通の電報すら大事件」と、またも電報について妙に強調がされている。

これらの意味はなんなのだろう。
まだよくわからない。

そして最後に登場する電報は、先に引用した先生がKの実家宛に打ったものである。


4、電報まとめ


以上、「こころ」の電報をまとめてみる。
物語記載順

① 鎌倉で遊んでいる「私」の友人宛に、その国元(中国地方)から来た電報
内容「母が病気だから帰れ」

② 実家にいる「私」が、九州の兄と、嫁いだ妹(場所不明)宛に出した電報
内容(おそらく)「父が危険な状態だから来てくれ」

③ 東京にいる先生が実家にいる「私」宛に出した電報
内容「ちょっと会いたいが来られるか」

④ ③への返信として「私」が先生に宛た電報
内容「行かれない、父危篤、委細手紙」

⑤ ④への返信として先生が再度「私」に宛た電報
内容「来ないでもよろしい」

⑥ 下宿時代、Kの自殺?を受けて先生がKの実家に出した電報
内容(おそらく)「Kが自殺してしまいました」


ちなみに物語の時系列であれば、⑥のK実家宛ての電報が一番最初になる。

これらの意味について、また考えていきたい。



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