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夏目漱石「行人」考察(19) 一郎が精神を病んだ決定的な一言
1、失恋する男にも「格」というものがある
これまで何度も、「行人」において語られる長野一郎の「苦悩」めいた語りが、異様に大袈裟であると、わかるように書かれていることを指摘してきた。
― 霊だ魂だスピリットだ、メレジスだパオロだフランチェスカだ、永久の敗北者だ永久の勝利者だ ― と。
そして、これらの苦悩は一言でいえば
「直にモテてないよ」
これに集約されることも指摘してきた。
かつ、「直にモテてなくてつらいよ」と、素直に口にできないこともまた、苦悩を強化させてしまうことも、指摘してきた。
「直は御前に惚てるんじゃないか」
(「兄」十八)
(※ 著作権切れにより引用自由です。)
これは疑いというよりも、一郎の願望であると指摘した。
https://note.com/vast_murre78/n/nce253fc6c9de
ただ単に、「あなたのこと好きではありません・男としてみれる要素ありません」とフラれるのと比べたら、「心底愛している男性が他にいるので、あなたとはお付き合いできません」のほうが、何倍もマシである。
自分語りをするが、私はモテなかった。
だからよく感じていた。
・女にフラれるにも、「格」というものがある
と。
現実にせよフィクションにせよ、失恋するのにも「格」があるのだ。
・一番上
「本当はあなたのことが好き。だけど、既に家庭がある・既に婚約者がいる・家同士が敵対関係・身分が違い過ぎる・あなたのことを好きな別の女性を傷つけたくない・・・ から、お付き合いや結婚はできません。」
これが、「失恋」の中では一番格上だろう。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」の主人公もこの「既に婚約者がいる」の部類だ。
・二番目
「あなたも本当に魅力的。でも私には心に決めた男性がいる。その人以外とはお付き合いできません。もしかしてその男性がいなかったら、あなたと結ばれていたかも、、、」
これが、二番目だろう。少女漫画でいえば最終的にヒロインとくっつく美形男子の、対抗馬であるキャラクターの全く異なる美形男子のポジションだ。
・三番目
「あなたに好きになってもらえたのは嬉しい。あなたは十分魅力あるし、とても大切な仲間。でも異性としては見れない」
これもまあ、あるだろう。客観的には顔・性格・スタイル・知能すべてがかなり上位と思える異性であっても、自分がその人を異性として好きになるか否かは、ちょっと別の次元だから。
・最下位
「あなたに好きになられるなんて、検討の余地ゼロの迷惑行為です。私はあなたから迷惑行為をされてる被害者です」
これが最下位だろう。
フィクションなら基本的には悪役のポジションだ。ドストエフスキー「罪と罰」なら主人公の妹と金の力で結婚しようとしてフラれ、逆恨みでヒロインに無実の罪を着せようとして失敗する金持ち男だ。
悪役でもなく笑われ役でもない登場人物が、この「最下位」なフラれ方をして、かつ何の救いもなかった珍しい作品が、武者小路実篤「友情」である。
主人公・野島は杉子という女性を好きになり、求婚までするが断られる。その女性は主人公の親友・大宮とくっつくのであるが、これは上記「二番目」のような、「心に決めた人がいるから~」ではない。
ヒロイン・杉子は大宮との手紙の中で、主人公のことを、
ありがた迷惑です、と、この人とくっつくぐらいならまだ〇〇さんとくっついたほうがマシです、と言っているのだ。
私はもちろん、「最下位」であった。「友情」の主人公であった。
・私が女性を好きになること = その女性にとっての迷惑行為
この公式が成立していた。ただ一人の女性を除いて。
「行人」に話を戻す。
一郎も、自分が「最下位」だとは思いたくなかった。
直に好かれていないとしても、せめて二番目か三番目でありたかった。
しかし、おそらくは一郎にとって望まぬ現実があった。
それを一郎もわかっていた。
わかっていたからこそ、現実逃避をしたかった。
現実逃避のために、「直は御前に惚てるんじゃないか」だのパオロとフランチェスカだの、永久の勝利者だのといった物語を想像しようとした。
「単に自分が好かれていないだけ」という現実から、目をそむけるために。
「行人」序盤の「友達」において、三沢の担当看護婦は「醜い」の一言で切り捨てられ、二郎と三沢との「性の争い」の対象には、まったく少しも入っていなかった。性の争いの対象に入っていない理由を、説明する必要すら二郎は全く感じていないほどに、性の対象に入っていなかった。
一郎は、自分がそのような存在だとは、認めたくなかった。
でも、認めざるを得ないことも、内心ではわかっていたはずだ。
だから、
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
(中略)
「然し宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食い留められそうだ。なればまあ気違だな。」
(「塵労」三十九)
との状態に至ったのである。
2、一郎が精神を病んだ決定的原因
そして、一郎が
「直は二郎や他の男に惚れてるわけではない。単に自分が男としてみられていないだけ」
とわからされたのが、この一言である。
「姉さんの人格に就て、御疑いになる所はまるでありません」
(「兄」四十三)
これは二郎が一郎から、「実は直の節操を御前に試して貰いたいのだ」(「兄」二十四)と言われて和歌山に出掛け、暴風雨により二人で宿泊し、帰った後に一郎が「一言要領を」と聞かれて二郎がした返事である。
おそらく、この一言、この二郎の態度から、一郎は悟ってしまったのだろう。
別に直は二郎に惚れてるわけでも不倫しているわけでもない。ただ単に、ただ単に、自分が直にモテていないだけ、それだけだったんだ、と。
直と二郎が二人切りで泊まった和歌山の嵐の夜(「兄」二十七~三十九)。確かに直は二郎の前で、泣いたり、以前に縫い付けで二郎から「親切だって賞められ」た話を思い出させたり、「嘘だと思うなら此処へ来て手で障って御覧なさい」・「着換えようと思って、今帯を解いている所です」と言ったり、暗がりの中で密かに顔にクリームをぬったり、「一所に飛び込んで御目に懸けましょうか」「大抵の男は意気地なしね。いざとなると」と言うなど、誘惑まがいのことは重ねた。
しかし、直接に性的な接触をするとか、好きですとか惚れてますとか愛してますとか、そういった言動は、直はしていないのである。一つも。一言も。
同じ漱石作品で「三四郎」のヒロイン・里見美禰子もそうであったが、いかにも主人公に気がある・好意があるかのような言動を重ねながら、直接に好意や愛を示すような言動は、一つもしないのである。
だから、誘惑めいた言動を、男が好意だと信じ込んで一歩踏み出そうとしても、いつでも直や美禰子は好きなタイミングで、「勝手に勘違いした迷惑男」扱いができるのである。無論それは男が勝手に彼女らに魅力を感じてしまっているからだが。
つまり事実として、直と二郎との間に、性的接触も、愛を確認するような言葉も、なんら存在しなかった。
だからこそ二郎は、一郎に対して堂々と
「姉さんの人格に就て、御疑いになる所はまるでありません」
と、言い切ることができた。
そして、その二郎の言葉と態度から、一郎は
「直は別に二郎や誰かに惚れてるわけではない。単に俺に魅力を感じていないだけ」
という、悲しい現実を悟ってしまった。
そして、一郎は精神を病んだのである。