夏目漱石「行人」考察(47)ハムレットと娘さん



夏目漱石の小説「行人」
前回に引き続き、三沢の話に出て来る「精神病の娘さん」の考察をしたい。


1、オフィリヤ


1(1)尼寺へ行け


三沢の家には「精神病の娘さん」を三沢が描いた画がある。
この画について気になる描写がある。

ー 自分は横手の本棚の上に、丸い壺と並べて置いてあった一枚の油絵に眼を着けた。
 それには女の首が描いてあった。その女は黒い大きな眼を有っていた。そうしてその黒い眼の柔かに湿ったぼんやりしさ加減が、夢のような匂を画幅全体に漂わしていた。自分は凝っとそれを眺めていた。彼の母は苦笑して自分を顧みた。
「あれもこの間いたずらに描きましたので」
 三沢は画の上手な男であった。職業柄自分も画の具を使う道位は心得ていたが、芸術的の素質を饒かに有っている点において、自分は到底彼の敵ではなかった。自分はこの画を見ると共に可憐なオフィリヤを連想した

(「塵労」十三)

オフィリヤといえば「ハムレット」のヒロインである。
精神を病み、川に落ちて溺死してしまう設定である。その悲劇は世界中で男百年、様々な形で語り継がれてきている。オフィリヤを描いた絵画も多数ある。
前期の「精神を病み、その結果死去」の部分は確かに「娘さん」と共通する。ここだけ見れば二郎の詩的な感想・連想だ。

だが一つ引っかかることがある。
漱石で「ハムレット」といえば、「三四郎」で三四郎がハムレットを観劇する場面がある。

 三四郎はハムレツトがもう少し日本人じみた事を云つて呉れゝば好いいと思つた。御母さん、それぢや御父さんに済まないぢやありませんかと云ひさうな所で、急にアポロ抔を引合に出して、呑気に遣つて仕舞ふ。
(略)
 ハムレツトがオフェリヤに向つて、尼寺へ行け尼寺へ行けと云ふ所へ来た時、三四郎は不図広田先生の事を考へ出だした。広田先生は云つた。――ハムレツトの様なものに結婚が出来るか。――成程本で読むと左うらしい。けれども、芝居では結婚しても好ささうである。能く思案して見ると、尼寺へ行けとの云ひ方が悪いのだらう。其証拠には尼寺へ行けと云はれたオフェリヤが些つとも気の毒にならない。

(「三四郎」十二)

所説あるがハムレットの台詞「尼寺へ行け」は、修道院で売春が行われていたことから「娼婦にでもなれ!」の意味とも解されている。

・「娘さん」が「オフィリヤ」、
・「オフィリヤ」といえば「尼寺へ行け」、
・「尼寺へ行け」とは「娼婦にでもなれ」ー

これを考えると「オフィリヤ」と記すことにより、この「娘さん」が売春婦もしくはそれに近い存在であると二郎は示している、そう思えてこないだろうか。

1(2)色情狂

そういえばこの「娘さん」の話が最初に三沢からされた時、二郎はこう言っていた。

「君に惚れたのかな」と自分は三沢に聞きたくなった。
「それがさ。病人の事だから恋愛なんだか病気なんだか、誰にも解る筈がないさ」と三沢は答えた。
色情狂っていうのは、そんなもんじゃないのかな」と自分は又三沢に聞いた。
 三沢は厭な顔をした。
「色情狂と云うのは、誰にでも枝垂れ懸るんじゃないか。その娘さんはただ僕を玄関まで送って出て来て、早く帰って来て頂戴ねと云うだけなんだから違うよ」

(「友達」三十三)

ここで三沢は「色情狂というのは誰にでもー」と否定しているが、当時の三沢宅に「娘さん」が接触を持つ男性は三沢以外にほとんどいないのではないか。「娘さん」は「ただ黙って欝ぎ込んでいるだけ」との状況であり、外出もあまりしなかったと思われる。むろん家には三沢の父親もいるだろうが、当時は学生であろう三沢に比べれば、接点ははるかに少なかったはずだ。それに色情狂でも相手がよほど美形か好みでもない限り、中年よりも若い異性がよいであろう。

よって、三沢にだけ声を掛けていたとしても反論の根拠とはなりにくい。

つまり、娘さんは本当に「色情狂」になってしまったのではないか。


1(3)玄人(黒人)


そして、二郎は玄人(黒人)-素人の違いに敏感である。

お兼さんは岡田に向って、「あなたこの間から独りで御得意なのね。二郎さんだって聞き飽きていらっしゃるわ。そんな事」と云いながら自分を見てねえ貴方」と詫るように附加えた。自分はお兼さんの愛嬌のうちに、何処となく黒人(くろうと)らしい媚を認めて、急に返事の調子を狂わせた。お兼さんは素知らぬ風をして岡田に話し掛けた。――

(「兄」一)

(※「黒人」=玄人)
二郎はお兼の目線と一言だけで、「玄人」、「」とまで感じている。少なくとも玄人の経験はそれなりにありそうだ。

その二郎が、「娘さんは色情狂」と判断したのである。私は説得力を感じる。


1(4)「あの女」も玄人


そして、三沢と二郎が大阪でずっと執着し続けた「あの女」であるが、三沢によれば「あの女の顔が、実は娘さんに好く似ているんだよ」と。
そして「あの女」は芸者であり文字通り玄人である。

三沢が「あの女」と顔を合せたのは、大阪のどこかの「茶屋」の酒の席である。当然「あの女」は芸者としてそこに呼ばれており、その時の化粧や髪形なども仕事用のもの、すなわち「玄人」のものであったろう。ちなみに私はしっかりメイクをした玄人女性の顔とすっぴんの顔とで同一人物と見抜ける自信はない。

完全に「玄人」として顔を合わせ会話をしていた「あの女」と、「精神病の娘さん」とが、「好く似ている」と。
これは「娘さん」が玄人らしい容姿・雰囲気を備えていた、ということになる。あくまで三沢の言が正しいとしてだが。


1(5)「娘さん」とお兼の共通項


結論から言う。
娘さんの「早く帰って来て頂戴ね」は、三沢に対する愛情でもなく、前夫に対して言いたかった事でもない。
お兼と同じく「玄人らしい媚」。これの一環である。そう考える。

この「早く帰って来て頂戴ね」とのフレーズは、「玄人に好く似て」おり「色情狂」の素養を持っていた娘さんの、元々の得意技だったのだ(直の「わたしだから」と同様)。
それが精神の病によってたまたま三沢相手に、人目を憚らずに口にするようになったと。そう考える

お兼は娘さんの「早く帰って来て頂戴ね」と似たようなことを、序盤で二郎の外出時にやっていた。気が付かなかったが、既に暗示がされていたのだ。
類似フレーズでの暗示が存する以上、娘さんの言葉もお兼と同様、玄人の媚ととらえるべきだ。

 三人で飯を済ました後、岡田は会社へ出勤しなければならないので、緩り案内をする時間がないのを残念がった。
(略)
「お兼、お前暇があるなら二郎さんを案内して上げるが好い」と岡田は急に思い付いたような顔付きで云った。お兼さんは何時の様子に似ず、この時だけは夫にも自分にも何とも答えなかった。自分はすぐ、「なに構わない。君と一所に君の会社のある方角まで行って、そこいらを逍遥いて見よう」と云いながら立った。お兼さんは玄関で自分の洋傘を取って、自分に手渡しして呉れた。それから只一口「お早く」と云った。

(「友達」五)

ここで岡田は出勤なので、二郎が「お早く」帰ってくればくるほど、夫の留守宅において二郎とお兼の二人(下女はいるが)の時間が増えることになる。その意味でも「玄人らしい」媚だ。娘さんと同じかあるいはお兼のほうがプロだなと感じる。

これが「早く帰って来て頂戴ね」の正体である。

三沢が自分に惚れていたのだと思い込みたがり娘さんの画まで描き上げ、また長野一郎が異様に執着してあれこれ分析して二郎に熱く語り続けていた「早く帰って来て頂戴ね」は、「玄人の媚」だったのである。

私はここに漱石の痛烈な皮肉というか、夏目漱石が自分が創った三沢と長野一郎に対し、高笑いをしている声が聞こえる。
そしてその高笑いの声の中に、漱石自身の深く強い痛みも、聞こえて来る。
そんなふうに私は感じた。

(「娘さん」関連の考察続けます。)

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