夏目漱石「坊っちゃん」⑲ マドンナは誰?

夏目漱石の小説「坊っちゃん」、明治39年(1906年)発表

気になることがあったので備忘録的にメモ

・「祝勝会」は日清戦争でも日露戦争でも西南戦争でもなく、小説内の架空の戦争の可能性もある

・坊っちゃんは実は一度もマドンナを見ていない可能性もある


1、祝勝会


1(1)明記はない


私は「坊っちゃん」の中で出て来る「祝勝会」について、まあ普通に読んだら日露戦争だろうが、厳密には断定できない旨を前に書いた。

書いた事は、要は小説内の時間設定について
・物語が進行しているのはどんなに昔でも日清戦争中(1894~1895年)以降
・語り手でもある坊っちゃんが回想している時点は日露戦争(1904~1905年)以降
ということである。

 祝勝会で学校はお休みだ。練兵場で式があるというので、狸は生徒を引率して参列しなくてはならない。おれも職員の一人としていっしょにくっついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。学校の生徒は八百人もあるのだから、体操の教師が隊伍を整えて、一組一組の間を少しずつ明けて、それへ職員が一人か二人ずつ監督として割り込む仕掛である。仕掛だけはすこぶる巧妙なものだが、実際はすこぶる不手際である。生徒は小供の上に、生意気で、規律を破らなくっては生徒の体面にかかわると思ってる奴等だから、職員が幾人ついて行ったって何の役に立つもんか。

(十)

(※ 著作権切れにより引用自由です)

この祝勝会についてはたまに「日清戦争か日露戦争か」と語られることがあり、上記の記事もそれに乗っかったものである。


だが、これは日清でも日露でもなく、小説内の架空の戦争かもと思えて来た。


1(2)あまりに無関心な坊っちゃん


上の引用でも明らかだが、主人公・坊っちゃんは祝勝会について、生徒の引率にしか興味はなく、いつもの悪態をついている。

この場面、最近まで気付かなかった私が言うのもなんだが、坊っちゃんはあまりに無関心過ぎないだろうか、祝勝会=戦争について。
(これは戦争について批判すべきとか勝利を祝うべきとかいう意味ではない。肯定も否定も全くなく、ただただ坊っちゃんは無関心なのだ)


他の作品であれば、「三四郎」(1908年連載)では序盤で汽車にいた「じいさん」がストレートに日露戦争批判をしているし、「それから」(1909年連載)であれば主人公が日本社会について「奥行きを削って、一等国だけの間口を張っちまった」と批評している。

このような作者である夏目漱石が、なぜか「坊っちゃん」における「祝勝会」については、戦争自体についても、その後の日本社会についてもなんら語っていない。批判的姿勢もなければもちろん肯定もない。

主人公・坊っちゃんは校長やら新聞やらについては、例の江戸っ子口調で社会批評的な語りをしている。決して完全なノンポリだから無関心なわけではなさそうだ。

こういった事を考えていて、思ったのだ。
この「祝勝会」は、小説内の架空の戦争ではないか、と。

またどこかで坊っちゃんの祝勝会への無関心について、掘り下げたい。


2、マドンナは誰?


2(1)坊っちゃんの思い込み?


私は今まで「坊っちゃんとマドンナとは接点がない。坊っちゃん側が一方的に見掛けただけ」と思ってきた。

しかし、坊っちゃんが見掛けた美人が、「マドンナ」とは、正確には断定できないのではないか。むろん、いかにもそれっぽく書かれてはいるが。

 ところへ入口で若々しい女の笑声が聞きこえたから、何心なく振り返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖っためて、掌へ握ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端に、うらなり君の事は全然すっかり忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然おれの隣りから、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。
(略)
 赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所の前に話している三人へ慇懃にお辞儀をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側を出して、二分ほどちがってると云いながら、おれの傍へ腰を卸おろした。女の方はちっとも見返らないで杖の上に顋をのせて、正面ばかり眺めている。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない

(七)

改めて見ると、マドンナ「じゃないかと思った」、「いよいよマドンナに違いない」と、坊っちゃんの推測であることがあえて強調されているようにも思える。


ちなみに上記の直後、温泉で坊っちゃんと、マドンナの婚約者であるはずのうらなりとが再度顔を合わすが、ここで何故かマドンナについて語られていないような描写になっている。

 温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壺へ下りてみたら、またうらなり君に逢った。おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉が塞って饒舌れない男だが、平常は随分弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰めてやるのは、江戸っ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。何を云っても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえが大分面倒らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙った。

(七)


2(2)当事者との会話なし


「マドンナ」の設定として、「うらなりと婚約していたが、赤シャツに乗り換えた」ここまでは確定してると思う(これも実は怪しい?)。

しかしこの三角関係の各当事者について、少なくとも坊っちゃんが直接に、マドンナについてまともな会話らしい会話をした描写が、私が見た限り、一つもない。
山嵐や下宿の婆さんとマドンナについて会話をしている場面はある。しかし肝心の各当事者間では、見当たらないのだ。

マドンナその人については、たとえ坊っちゃんが見掛けた女性がそうだったとしても接点がないので当然であるが、上の引用も含めうらなりともマドンナの話はしていない。
唯一あるのが、赤シャツに対するこの一言である。

 だまって聞いてると勝手な熱を吹く。沖へ行って肥料を釣ったり、ゴルキが露西亜ロシアの文学者だったり、馴染の芸者が松の木の下に立ったり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑み込むのも精神的娯楽だ。そんな下さらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいい。あんまり腹が立ったから「マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互いに眼と眼を見合せている。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう云ったら蒼い顔をますます蒼くした

(六)

これも不審な眼で見ると妙に思えて来る。
もし下宿の婆さんがいうように「うらなりの婚約者を赤シャツが奪った」というのが事実であれば、周囲は「妙な顔で互いに見合わせる」のではなく、もうちょっと気まずそうにしたり、逆にほくそ笑むなどしそうなものでは。

この「妙な顔をして互いに眼と眼を見合せている」との反応は、気まずい話を大胆にぶつけた、に対するものではなく、「こいつは一体なんの話をしてるんだ?」と周囲が感じているかのようだ。

また赤シャツも下を向くのではなく、なにか咄嗟に得意の弁舌で言い訳を重ねそうなものだ。苦しそうに下を向いただけで終わっているのは、一体どういうことだろうか。

きょうはとりあえずここまで。
またどこかで掘り下げたい。


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