漱石「こころ」考察33「新聞と乃木希典」

夏目漱石の有名作品「こころ」、大正3年(1914年)連載。

作品は三章構成であり、最後が
「下 先生遺書」
である。

前にもふれたが、「先生 の 遺書」ではない。「先生  遺書」である。

つまり少なくとも先生「の」遺書に限った話ではない、ということだ。



1、乃木殉死を報じる新聞


- 「こころ」には遺書が、計3通出てくる -
こう言われれば勘定できる人は多いだろう。K、先生、そして新聞に掲載された乃木希典の遺書だ。

1(1)相続と写真にふれない先生


まず、現実の歴史で大正元年(1912年)9月13日から翌9月14日にかけての出来事。
乃木希典夫妻殉死を報じる、新聞に接した際の先生。場所は東京。

 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

(「下 先生と遺書」五十六 = 「こころ」最終章)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)


引用したように、東京の先生は単に殉死に驚くのみではない。
新聞に掲載された乃木の遺書とその内容にふれ、指を折って年数の勘定までしたとしている(これはこれで不自然すぎる。45-10を指で勘定?)。

またこれも何度かふれたが小林十之助氏の指摘とおり、乃木の遺書では「中野の地所家屋は 静子其時の考に任せ候」と静子への相続分指定を明確に残している。心中の予定ではなかった。
なのに、静子も共に死んでいるのである。

この不整合については、乃木希典を語る上でふれている人たちもさすがにいる。

しかし先生は、西南戦争で旗云々にはふれながら、静子が同日に死んでいることには、なにもふれていない。
すぐ隣に「」がいるのに。
約2か月前に先生自身が、「静、おれが死んだらこの家をお前にやろう」とわざわざ口にしているのに(上・三十五。「私」の大学卒業式当夜)。


また、先生は遺書についてはふれて考えをめぐらしながら、新聞に掲載されたはずの、殉死当日(大正元年9月13日)に撮影された乃木希典とその妻・静子との写真については、一切まったく、なにもふれていない。

しかし同じ頃、「私」は写真にふれているのである。

1(2)遺書にふれない「私」


先生と同じ時間軸、大学を卒業し田舎に帰省していた「私」は同じように新聞をしっかり読んでいながら、乃木の遺書については全くなにもふれないのだ。

 乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った
「大変だ大変だ」といった。
 何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私も実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
 その頃の新聞は実際田舎ものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父の枕元に坐って鄭寧にそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へ持って来て、残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった

(「中 両親と私」十二)

新聞で知った」「新聞は 日ごとに待ち受けられるような記事ばかり」「丁寧に読んだ」「残らず目を通した」「眼は長い間 忘れる事ができなかった
ずいぶんと「私」は新聞を大切にし、しっかりと読み込んだことになっている。
しかし何故か「私」は、掲載されたはずの乃木の遺書については、その存在自体も含めて、一言もふれないのだ。

写真については「長い間 忘れる事ができなかった」としているのに。
「私」自身こそが目の前に相続問題を抱えているのに。

「お前ここへ帰って来て、宅の事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかった。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭いを嗅いで朽て行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎でも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いだろう」
「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口に斥けた。

(「中 両親と私」十五)


このように、ともに同じ時間軸で、乃木希典の殉死を報じる新聞をしっかり読んでいるのに、先生と「私」は対照的に書かれている。

・先生 遺書の内容にはふれるのに写真には一切ふれない
・「私」 写真にはふれるのに遺書の内容には一切ふれない

これは何故なのか。


2、写真見るとおかしさが露骨


2(1)苦悩してなさそう

もう一度、先生が乃木の遺書にふれた箇所を引用

 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいかまた刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

(「下 先生と遺書」五十六)

申し訳のために死のう死のうと思って」「三十五年の間死のう死のうと思って」「生きていた三十五年が苦しいか刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか
こう、表面上はひどい苦悩の中に長い長い間あったかのように書かれている。

しかしその写真はこれである。

どうだろう。
そんな苦悩の中にいるように見えるだろうか。

あまり、見えない。見えないよね?
三十五年間、生きていることに苦しんでる様子には、見えない、私には。

というかそもそもこの写真自体が不自然過ぎないだろうか。

乃木希典はわざわざちゃんと軍服を着ている。
だがなぜか椅子に座り、カメラから見て身体を斜めにしている。
顔には鼻眼鏡をかけ、新聞を手に取り目を通している。
撮影するならカメラ目線でなんらかの姿勢を取るのが通常ではなかろうか。「殉死」を決意した上での写真なのに。

これに対して背後の静子はカメラを意識していると見える。

この写真と、「生きていた三十五年が苦しいか刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか」この描写とは整合しない。
だからこそ先生は写真には一切ふれなかったのではないか。

2(2)「私」は写真に注目している


これももう一度、「私」の描写に注目してみると、「私」は不自然なまでに写真を記憶しているのだ。

 その頃の新聞は実際田舎ものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父の枕元に坐って鄭寧にそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へ持って来て、残らず眼を通した私の眼は長い間軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった

(「中 両親と私」十二)

そして、このように「私」が写真(それも先生とは異なり乃木夫人(静子)にもふれている)を目に焼き付けたとしながら、ではその写真についてどう感じたとかについては、一切ふれられない。この後、話は先生からの電報に移っている。

正直よくわからない、いろいろと。


3、なにかが欺瞞なのだ


私には正直、よくわからないことだらけだ。
一体全体、夏目漱石はなぜこんなよくわからない描写をしたのか。

たぶん、なにか凄まじい疑問を、乃木希典夫妻殉死の、その「報道」に感じたのではないか。その欺瞞が一体なんなのかは、漱石自身も明確には把握していなくとも。

(ちなみに私個人は別に乃木希典夫妻の事は正直どうでもいい。あくまで「こころ」になにが書いてあるのかを読み込むうえで必要だと思ったから、こうしてあーだこーだしている)

「こころ」のよくわからない描写

・妙に強調され続ける「新聞」(「私」、「私」の父、Kの自殺直後、最終章の先生)

・「私」と先生とで、乃木夫妻の殉死を報じる新聞につき、ともに載っていたはずの、遺言-写真、を使い分けて描写

・乃木夫妻殉死の新聞を読んで慌てた「私」の父に対する、妙に冷ややかな家族の反応(兄「いよいよ頭が変に」、関「実は驚きました」、私「日ごとに待ち受けられるような記事ばかり」)

・45-10を、なぜか指を折って勘定し出す先生

・「西南戦争」で旗を取られたことが殉死の理由とする乃木に対し、先生の妻(静)の父親が「日清戦争の時か何かに死んだ」とされていること


そして、現在のところ賛同者はいないようだが、実は「こころ」に書かれたKの自殺も、相当に怪しいのだ。

先生はKと乃木希典の自殺方法を、それぞれこう語る。

小さなナイフで頸動脈を切って一息に(K)
刀を腹へ突き立てた一刹那(乃木希典)

これはあえて微妙に重ね合わせた、そう読める。
つまり、Kの自殺も乃木夫妻の殉死も、同様に怪しいのだ。

さらに、大正元年9月13日の乃木夫妻殉死の後、同年12月から連載開始された夏目漱石の小説「行人」(「こころ」の前作にあたる)において、主人公の兄嫁はこう自殺を語る。

「あら本当よ二郎さん。妾(あたし)死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌いよ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」

(「行人」兄・三十七)

漱石作品において「小刀細工」とは、「人間のするつまらん小手先のごまかし」ぐらいの意味で使用されている。

すなわち、「小刀細工」だったと夏目漱石は言っているのだ。
乃木希典夫妻殉死を報じる新聞も。
「こころ」のKの死も。


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