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夏目漱石「坊っちゃん」⑪ 設定とその時代



夏目漱石の有名小説「坊っちゃん」
この「坊っちゃん」の設定、世界観をもう一度考えたい。

1、場所


1(1)松山市ではない

まず前提についてだが、何度かふれたと思うが「坊っちゃん」の舞台は「愛媛県松山市」ではない

作中では「四国」としか書かれていない。

 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だらうと思つて、出掛けて行つたら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行つてはどうだと云ふ相談である。おれは三年間学問はしたが実を云ふと教師になる気も、田舎へ行く考へも何もなかつた。尤も教師以外に何をしやうと云ふあてもなかつたから、此相談を受けた時、行きませうと即席に返事をした。是も親譲りの無鉄砲が祟つたのである。

(「坊っちゃん」一)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

作者:夏目漱石は作家となる前に愛媛県松山市の中学で、英語教師をしていた。だから松山市の体験がモデルになっていることは間違いない。
しかし舞台が「松山」との明示はない。「四国」の具体的にどこかとは書かれていないのである。


1(2)明示のある地名

「坊っちゃん」において市町村レベルの地名があがっているのは、以下の四か所のみである。

・父親死去以降の坊っちゃんの下宿が「神田の小川町」(「一」)
(=東京都千代田区)
・坊っちゃんが東京以外で出掛けたことがあるのは「鎌倉」への遠足ぐらい(「一」)
・父の葬儀をし、かつ清の墓があるのは「小日向の養源寺」(「六」、「十一」)
(=東京都文京区)
・うらなりの転任先は「延岡」(=宮崎県延岡市)(「八」)

ちなみに坊っちゃんの生家すら「東京」ではあるが具体的地名はない。
ただ生家に清がいた時分に坊っちゃんの独立予定先を「麹町ですか麻布ですか」と話していたこと(「一」)からすると、この二つではなさそうだ。

このように地名が隠される中、上記の四か所についてはわざわざ特定されている。私はこれは意味のあることだと思っているので、またじっくり考えたい。

1(3)漱石の滞在


あちこちの地名でだいぶ寄り道をしてしまった。

夏目漱石が松山中学で教員をしていたのは
・明治28年(1895年)~明治29年(1896年)
のことである。
なおこれ以前にも、松山市出身の友人:正岡子規の生家等に滞在したこともある(明治25年(1892年))。

そしてこの「坊っちゃん」が書かれたのは、四国での教師経験から10年後の
・明治39年(1906年)
である。


2、「坊っちゃん」の前提


重要な前提として何度か書いているが、「坊っちゃん」の主人公であり語り手である坊っちゃんの叙述は、物語進行リアルタイムでの感想ではない。
物語記載の出来事を全て見届けた後の、回想記である。

それが示されている記載は下の記事で引用しました。


3、坊っちゃんとその時代


ようやく「坊っちゃん」の内容に入る。
物語中の出来事・記載から、作中の時代を探りたい。

3(1)祝勝会

物語中、戦争の「祝勝会」が行われる。しかしこれがなんの戦いについてかの明記はない。

 祝勝会で学校は御休みだ。練兵場で式があると云ふので、狸は生徒を引卒して参列しなくてはならない。おれも職員の一人として一所にくつついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしい位である。学校の生徒は八百人もあるのだから、体操の教師が隊伍を整へて、一組一組の間を少しづゝ明けて、それへ職員が一人か二人宛監督として割り込む仕掛けである。仕掛だけは頗る巧妙なものだが、実際は頗る不手際である。生徒は小供の上に、生意気で、規律を破らなくつては生徒の体面にかゝはると思つてる奴等だから、職員が幾人ついて行つたつて何の役に立つもんか。

(「十」)

これについては普通に考えれば、日清戦争(1894(明治27年)~1895)か、日露戦争(1904(明治37年)~1905)のどちらかであろう。
もしかしたら西南戦争の可能性はないかと思ったが、あれは「こころ」で先生が言うように「明治10年(1877年)」の出来事である。既に「中学校」「師範学校」が整備された(中学校令が明治19年)「坊っちゃん」の時代よりはだいぶ前となる。


3(2)日清戦争

うらなり(古賀)の送別会。何度も「日清談判」が出てくる。

 おれはさつきから苦しさうに袴も脱がず控えて居るうらなり君が気の毒でたまらなかつたが、なんぼ自分の送別会だつて、越中褌の裸踊迄羽織袴で我慢して見て居る必要はあるまいと思つたから、そばへ行つて、古賀さんもう帰りませうと退去を勧めて見た。するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰つては失礼です、どうぞ御遠慮なくと動く景色もない。なに構ふもんですか、送別会なら送別会らしくするがいゝです、あの様を御覧なさい。気狂会です。さあ行きませうと、勧まないのを無理に勧めて、座敷を出かゝる所へ、野だが箒を振り/\進行して来て、や御主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を塞いだ。おれはさつきから肝癪が起つてる所だから、日清談判なら貴様はちやん/\だらうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと喰はしてやつた。野だは二三秒の間毒気を抜かれた体で、ぼんやりして居たが、おや是はひどい。御撲になつたのは情ない。この吉川を御打擲とは恐れ入つた。愈以て日清談判だ。とわからぬ事をならべて居る所へ、うしろから山嵐が何か騒動が始まつたと見て取つて、剣舞をやめて、飛んで来たが、此ていたらくを見て、いきなり頸筋をうんと攫んで引き戻した。日清……いたい。いたい。どうも是は乱暴だと振りもがく所を横に捩つたら、すとんと倒れた。あとはどうなつたか知らない。途中でうらなり君に別れて、うちへ帰つたら十一時過ぎだつた。

(「九」)

この描写だけだとまだ日清戦争は始まってはおらず、開戦前の両国の対立(談判)までとも一応解釈はし得る。
しかし先の「祝勝会」があったことからすれば、物語進行は遅くとも日清戦争(1894年(明治37年))が開戦した以降であると、確定できる。

3(3)日露戦争

一方、日露戦争に関する描写も、作中に二か所ある。

まず、坊っちゃんの大食いを生徒らがからかう場面

 - おい天麩羅を持つてこいと大きな声を出した。すると此時迄隅の方に三人かたまつて、何かつる/\、ちゆ/\食つてた連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、一寸気がつかなかつたが顔を合せると、みんな学校の生徒である。先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。其晩は久し振に蕎麦を食つたので、旨かつたから天麩羅を四杯平げた。
 翌日何の気もなく教場へ這入ると、黒板一杯位な大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑つた。
(略)
一時間あるくと見物する町もない様な狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争の様に触れちらかすんだらう。憐れな奴等だ。

(「三」)

次に、他校の生徒らとの乱闘に坊っちゃんが止めに入った場面

おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍に居た師範生の頭を張りつけてやつた。石が又ひゆうと来る。今度はおれの五分刈の頭を掠めて後ろの方へ飛んで行つた。山嵐はどうなつたか、見えない。かうなつちや仕方がない。始めは喧嘩をとめに這入つたんだが、どやされたり、石をなげられたりして、恐れ入つて引き下がるうんでれがんがあるものか。おれを誰だと思ふんだ。身長なりは小さくつても喧嘩の本場で修業を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりして居ると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ/\と云ふ声がした。今迄葛練りの中で泳いでる様に身動きも出来なかつたのが、急に楽になつたと思つたら、敵も味方も一度に引き上げて仕舞つた。田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨い位である

(「十」)

クロパトキンとは、日露戦争時の司令官であった軍人である。

このように作中には日露戦争関係の発言が二か所存する。
そうであれば作中の時間経過も、日露戦争中とも思える。

その可能性は高いとは思うが、一応注意すべきなのは上記の「天麩羅事件を日露戦争のようにー」・「退却は巧妙だ。クロパトキンよりー」の描写は双方とも、坊っちゃんの内心における語りということである。

既に示したように「坊っちゃん」は物語記載の出来事が全て経過した後の、坊っちゃんによる回想文である。そのため坊っちゃんの内心の吐露の描写のみでは、物語が日露戦争中であるとの、断言まではできない。
これに対し「日清談判」は他の登場人物(野だいこ)の台詞として出てくるので確定的である。

よって、物語の時間について可能性の高低ではなく、断定的に言えるのは以下の2点である。

① 物語進行中は、遅くとも日清戦争開戦(1894年(明治27年))以降である

② 坊っちゃんが回想してこの「坊っちゃん」を執筆しているのは、遅くとも日露戦争開戦(1904年(明治37年))以降である。


4、新橋駅


他記事でもふれたが物語中、「新橋(駅)」が二か所出て来るので、それについて語りたい。

まず序盤で坊っちゃんが兄と別れる場面

 九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出して是を資本にして商買をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも随意に使ふがいゝ、其代りあとは構はないと云つた。兄にしては感心なやり方だ。何の六百円位貰はんでも困りはせんと思つたが、例に似ぬ淡泊な処置が気に入つたから、礼を云つて貰つて置いた。兄は夫から五十円出して之を序に清に渡してくれと云つたから、異議なく引き受けた。二日立つて新橋の停車場で分れたぎり兄には其後一遍も逢はない

(一)

もう一つは対照的に終盤、山嵐と別れた描写

 汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐう/\寐込んで眼が覚めたら、午後二時であつた。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答へた。赤シヤツも野だも訴へなかつたなあと二人で大きに笑つた。
 其夜おれと山嵐は此不浄な地を離れた。船が岸を去れば去る程いゝ心持ちがした。神戸から東京迄は直行で新橋へ着いた時は、漸く娑婆へ出た様な気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日迄逢ふ機会がない。

(十一)

なお、序盤で東京から四国に旅立つ坊っちゃんを清が見送る名場面では、何故か具体的な駅名は示されていない。

 出立の日には朝から来て、色々世話をやいた。来る途中小間物屋で買つて来た歯磨と楊子と手拭をズツクの革鞄に入れて呉れた。そんな者は入らないと云つても中々承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラツトフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔を昵と見て「もう御別れになるかも知れません。存分御機嫌やう」と小さな声で云つた。目に涙が一杯たまつて居る。おれは泣かなかつた。然しもう少しで泣く所であつた。汽車が余っ程動き出してから、もう大丈夫だらうと思つて、窓から首を出して、振り向いたら、矢っ張り立つて居た。何だか大変小さく見えた。

(一)


前にも書いたがこれらの「新橋駅」は、現在(令和6年)の新橋駅とは全く別の場所にあった。
現在は「旧新橋停車場跡」となっている。

1872年(明治5年)の鉄道開設(新橋-横浜間)以来、新橋駅は現在でいう東京駅のような、地方-東京間を行き来する乗客たちの終着・始発のターミナル駅であった。
大正3年(1914年)の東京駅開業により、その役割を東京駅に譲った。

漱石の他作品「行人」(大正元年連載)では、船ではなく汽車で旅行に出立したことを示す用語として「新橋」が使われている。

「どこへ行ったんですか」
「何でも伊豆の海岸を廻るとかいう御話しでした」
「じゃ船ですか」
「いいえやっぱり新橋から……」

(「行人」(塵労・二十四))


いつか新橋駅に寄ることがあったら、それが漱石作品に描かれたものとは違うとは承知の上で、坊っちゃんになりきって、兄や山嵐への別れの言葉を、勝手に創って述べてみたい。


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