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夏目漱石「坊っちゃん」⑥ 主人公とヒロインに接点なし

1、ヒロイン「マドンナ」

「坊っちゃん」のヒロインといえば「マドンナ」である。
マドンナはどんな女性かといえば、「すごい美人」である、
坊っちゃんの二度目の下宿のお婆さんからは
「ここらであなた一番の別嬪(べっぴん)さんじゃがなもし」
(「七」)
と言われている。
 ※ 著作権切れにより引用自由です。
   改正前著作権法・死後50年経過(現著作権法では死後70年)。
   夏目漱石は大正5年(1916年)死去。享年49歳)

さらに坊っちゃんに至っては、マドンナを遠くから一度眺めただけで、

「色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人」
(中略)
「全く美人に相違ない。何だか水晶の玉を香水で暖(あっ)ためて、掌(てのひら)で握ってみたような心持ちがした。」

(「七」)

とまで評しています。一度見ただけでここまで詩的に語るのもおかしいというか、ちょっと異常である。「水晶の玉を~握ってみたような心持がした」と言われても、どんな心持なのか私は想像できない。

しかも坊っちゃんは普段、悪役である「赤シャツ」が大学の文学部卒であり、やたらと詩的に語ろうとするのを、かなり嫌悪していたのにである。(例:
赤シャツは時々帝国文学とかいう真っ赤な雑誌を学校に持って来て難有(ありがた)そうに読んでいる。山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。
(五))

それがマドンナに対してはほんのちょっと見掛けただけで「水晶の玉を香水
でー」とポエムを語りだすのである。 

2、漱石の女への目線

少し「坊っちゃん」から話はそれるが、夏目漱石は他の作品で、美人の外見描写が大変細かいというか、女性が読んだら気持ち悪く感じるであろう勢いで、女性の外見や顔・肌について、非常に事細かに描写している。現代の有名男性作家がもし同様の描写をしたならば「炎上」するのではないかというレベル。

例・「三四郎」では主人公・がヒロイン女性の顔について、

「肉は頬(ほほ)と云わず顎(あご)と云わずきちりと締っている。骨の上に余ったものは沢山(たんと)とない位である。それでいて、顔全体が柔かい。肉が柔かいのではない骨そのものが柔かい様に思われる。」

と、一瞬見ただけでここまで凝視しています。他にも「三四郎」にはわざとか思うほどに、女性の顔を主人公が凝視してねとねと観察したり他の女と比べたりといった描写が複数ある。

その片鱗が、「坊っちゃん」の、このマドンナに対する描写にみられる。

3、坊っちゃんとマドンナに接点なし


上記のように坊っちゃんはマドンナを「全く美人に相違ない」「水晶の玉を香水で暖めてー」と評しているが、これは坊っちゃんがマドンナを遠くから眺めて勝手に感じているのである。
坊っちゃんとマドンナとの間には、一言の会話もない。
もっと言えば作中でマドンナは、一言も言葉を発していないのです。

この「主人公とヒロインとの間に、なんの接点もない」というのも、「坊っちゃん」の極めて特徴的な面と思う。むしろ通常の「物語」においては、あり得ない設定であろう。

このあり得なさ具合を、作品の外から裏付ける事実が、2つある。
一つは、ある「坊っちゃんの」実写化版です。

「坊っちゃん」は何度か実写化されているが、私が見たあるテレビドラマでは、記憶では観月ありさもしくは千堂あきほが演じていた「マドンナ」が、坊っちゃんの存在をしっかり認識していた。
そして、ハイカラな衣装で夕暮れの土手に一人たたずむマドンナが、長いキセルを吹かしつつ
「もし、坊っちゃんといっしょになったら、私らしくいられるのかな、、、」
とつぶやく場面があった。マドンナが坊っちゃんに好意や恋愛感情を抱いているようである。もちろん原作にはこのような場面も、似たような場面も一切ない。

これはこれでドラマの名場面であり、そのため私も記憶しているので、原作の改変を批判する意思はない。
ただ、このような完全な改変をあえて創作して差し挟まないと「物語らしくない」と、TVドラマ制作側は考えたということである。

もう一つの事実は、愛媛県松山市内の銅像だ。
この記事の冒頭に貼り付けたものである。
(松山市公式観光WEBサイトより
 https://matsuyama-sightseeing.com/spot/157-2/

松山市は「坊っちゃん」で観光アピールを頑張っているのだが、市内に坊っちゃんとマドンナとが二人で横に並んでいる銅像が立てられている。これも原作にはそのような場面は全くないのである。

全く別の作品だが、静岡県熱海市の海岸には、そこが舞台となった「金色夜叉」(明治30年(1897年)新聞連載開始。未完のまま作者の尾崎紅葉は35歳で死去)の、有名な場面が銅像化されている。
主人公の貫一(かんいち)が、ヒロインのお宮を蹴とばす場像で、これは実際に小説中に出てくる。

裏を返せば、原作にはない場面をあえて創作しないと、銅像として表現できて、かつ主人公とヒロインとを同時に描写できるような場面が「坊っちゃん」には存在しないということだ。

坊っちゃんにとって、マドンナは完全に赤の他人のままなのである。

そう、主人公の男にとって、ヒロイン女性が「他者」なままなのである。

これが漱石作品の特徴であり、私が惹かれた理由です。おいおい語りたい。



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