夏目漱石「行人」考察(39)「大抵の男は意気地なしね」は強がり
夏目漱石「行人」。主人公:長野二郎の嫂(兄嫁)である「直」。
二郎と二人きりで泊まることになった暴風雨の和歌山の夜。
どうも二郎が直に翻弄されているように見せかけているが、実は落ち付いているのではと思い始めた。
1、実は二郎は冷静?
暴風雨の夜、宿が停電する。それが一瞬直って明るくなり、と思ったらまた停電で暗くなる。
ここで「白粉(おしろい)」と「クリーム」との取違えはなんなのだろうか。二郎は知ったかぶりであまり物や芸術の良し悪しは見抜けないことは「行人」中にくどいほど繰り返されているが、これもその一つなのだろうか。
しかし、ここで急に二郎が会話の主導権を握っている。
それまで直に翻弄されっぱなしであった(ように見えた)二郎が、直が化粧していたことを確認しておきながら、すぐにはふれなかった。
そして暗闇になって互いに顔が見えなくなったところで、化粧についてふれることで、相手の不意を突いている。
さらに「こんな時に白粉まで持って来るのは実に細かいですね、姉さんは」とからかいも見せるという、これまでとは逆の展開を見せている。
となると「白粉-クリーム」も、二郎としては実際はどちらでもいいから「色白に見せたいんですか嫂さん」とのからかいで言ったものだろうか。
前の記事で、停電で暗くなったところで「帯を解く音」を聞かせる直のやり口に感心した。しかしここでの二郎はその手法を踏まえて、さらに発展させているといえる。
「信頼できない語り手」:二郎は、あたかもずっと直にコントロールされたかのような口ぶりで描写しておいて、実は直の意図も見計らって、わざと翻弄させられていたのではないか。
そう思うと、二郎が自分で書いているこの文学的表現も、怪しくなる。
2、直の自殺話にも冷静な二郎
そして蚊帳の中で、直は唐突に語り始める。
展開に私自身が気圧されて気が付かなかった。ここで二郎が異常なまでに冷静ではないか。
外を吹き荒れる暴風雨、急に元の宿に帰れなくなり連絡も取れない状況、知らない宿、停電、嫂と二人きりの部屋、、
これだけの非日常と恐怖を感じる状況が重なり、とどめにその嫂はいきなり「死に方」話や自殺願望をなんの脈絡もなくはじめ、首を縊るだの咽喉を突くだのとおだやかでない言葉を並べて来た。
これに対し、「普段小説も読まない女が急に芝居じみたこと言うなあ」と、特に驚く様子もなく冷静に受け流しているのだ。二郎は。
「小説などをそれ程愛読しない嫂から、始めてこんなロマンチックな言葉を聞いた」と二郎は語る。
これはもう、直の言葉を真剣な自殺願望としてではなく、相手を少女趣味か現代で言う中二病の発言として処理した感想ではないか。
さらに冷静なのは次の発想だ。
ここも、先ほどまで直に翻弄されているようにしながら、二郎は直を半分小馬鹿にしつつ、観察か実験をする対象としてとらえていないだろうか。
3、「大抵の男は意気地なしね」はフラグ
この視点でみると、遡るが直のこの台詞が強がりに聞こえて来る。
手元の文庫本の裏表紙にもこの言葉が飾られている。個人的に文そのものには同意である。
この「大抵の男は~」との台詞を素直に読めば、直は他にも複数の男と、きわどい場面を経験してきたかのように思える。
しかしこれは強がり、あるいは「フラグ」ではないか。
(「フラグ」 物語でたとえば今から戦地に出撃するパイロットが「俺、この戦いが終わったら結婚するんだ」とつぶやいたらその男は戦死するとか、やくざ映画でやくざが「家族と穏やかな日常を過ごす場面」が写されたら襲撃食らうとかいうような、定番の流れ)
物語における一種の定番として、「自分から異性経験豊富だとアピールする登場人物は、未経験もしくはほとんど経験ない」というパターン。そのフラグではないかと。
「大抵の男は意気地なしね」に対する二郎の述懐はこうである。
直から経験豊富かのようなアピールをされて、まず、それと対照となる「女というものをまだ研究していない事に気が付いた」とのアピール。
続けて、これは直との会話全体を受けての感想であるが、「却って愉快でならなかった」と。
全く動じていない、むしろ楽しんでいないだろうか。
私が自分の解釈に引きずられているのだろうか。どうも直の言動が過激化していくのと対照的に、翻弄されていたはずの二郎が冷静に流しているように見える。
4、二郎も直の内心を見抜いている
私はこの「和歌山の夜」の一連の直の言動について、「一郎がプログラムしてその差し金で二郎が動いていることを、直は把握しており、それを踏まえてあえて誘惑めいた言動を二郎にしている」と解釈している。
しかし他の視点でみれば、二郎も「直がそれを把握しているであろうことぐらい想像ついている」はずである。
直が「一郎によるプログラム」を全く想像できていない・全く気付けないほどの純白な存在とは、二郎は思っていまい。
ドストエフスキーの「罪と罰」で、殺人犯である主人公と検察官?の男が、互いに途中まで口には出さないが内心で、「あんた絶対俺が犯人だと思ってるよな」・「ああ犯人は間違いなくお前だ」と確信しておきながら、表面上は言葉にしないまま会話を続ける描写があった。
これをさらにもう一段階ややこしくしたのが、「行人」の二郎と直なのだろうか。
信頼できない語り手・二郎は、私が思っていたよりもさらに信頼できない奴なのかもしれない。
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