夏目漱石「行人」考察(26)お貞と長野父
1、長野父もお貞が(まあまあ)好き
前の記事でもふれたように、「行人」に出てくる長野家の下女・お貞を、長野一郎は気に入っているし、二郎もからかって楽しんでる。
それに加えて、長野父(下の名は明かされていない)も、お貞のことを気に入っている。
以下論拠を述べる。
1(1)長野父がすぐにお貞・一郎を理解する
ある秋の日の、長野家の夕食、二郎がお貞をからかい、それを一郎がわざわざ直と比較してお貞をかばった場面。長野父も一言発している。
「どうするれん」とは、「どうするどうする!」とはやし立てる野次馬根性の人間をさすらしい。ここで、お貞の行動を一郎から説明されないと理解できなかった長野母と、即座に理解し切っている長野父とが、対比されている。
一郎については、この直前に自室で二郎といた際にお貞が来、二郎がお貞をからかった直後なので(「帰ってから」六)、お貞の行動を理解できているのは当然である。
しかし、長野父は当然その場に臨席していない。
そうであるのに、お貞を「お気に入り」な長野母が理解できなかったお貞の行動と、それが二郎のからかいに起因するものであることを、長野父は、完全に把握し切っていたのである。
これは、夏目漱石が読者にわかるように、長野母と長野父とを、対比させたのだと思う。
しかも、長野母はお貞を「お気に入り」とわざわざ指摘されているのに(「兄」一)、その長野母よりも、長野父はお貞を正確に理解しているのである。
1(2)お貞の縁談を止めようとした長野父
お貞の縁談話が長野家に挙がった際、長野父は否定的な反応をしている。
これは一応、お貞云々ではなく、娘であるお重をまず嫁がせるべきなのに先に下女の縁談をまとめるのは順番違いだ、との素直な意見とも読める。
しかしここで、二点、気にかかる描写がある。
1、兄(一郎)はすぐに折れたのに、長野父はしばらく折れなかった
2、「兄の見地に多少譲歩している父も無事に納得した。」
どうだろう、長野父がしぶしぶで同意したことを、「譲歩」・「無事に」との表現で、あえて顕出させていないだろうか。
「お貞の結婚機会をわざわざ逃しても損」という長野母の論理は、普通に理解できる。だがそれを長野父は最後まで納得しなかったのである。
しかも一般に、男は理屈で、女は感情で動くものとされている。ところがこの場面では、長野母と一郎が論理で動き、それに長野父が感情でしばらく対抗し、しかし揉めるのもおかしいので納得はした、そう読めるように書かれている。
そして、お貞の結婚式が終わった後も、長野両親がそこまで強くお重の結婚相手を探しているとも、書かれていない。
それも含めて考えれば、やはり長野父はお重の結婚が順だ云々よりも、お貞の結婚を、あまり勧めたくはなかったのだ。
2、お貞もある程度長野父と仲が良い
本筋とは無関係と思われるエピソードが、二郎らが大阪から帰った後に書かれている。
二郎が例によって知ったかぶりをしたところを、お重とお貞との二人で、訂正している。
ここで「そうじゃないのよ。~」と具体的な台詞を発しているのは、お重のみである。
しかし、下女であるお貞が、ここではあえて二郎に異論を挟んだことが、かすかにであるが示されている。
二郎の知ったかぶりを正すだけであれば、妹であるお重にまかせておき、お貞は静観していてもよさそうである。
しかしこの箇所では、お貞も積極的に、二郎に異論を挟んだと示されている。
これはつまり、お貞が長野父と(ある程度)仲が良いので、あえて積極的にかばった。そう解釈できないだろうか。
3、お貞の結婚式が質素だと強調
お貞と佐野との結婚式は、長野家がすべて取り仕切って行われている。
私には何故すべて長野家がしてあげているのかよくわからないのだが、どうも当時にはそういったことがあったらしい。他の漱石作品でも「明暗」で、主人公の叔父である藤井家が特に金持ちでもないのに、同家の下女であるお金(きん)さんの夫探しや、結婚にかかる各費用の出費で苦心する描写がある。
(しかしだとしても、結婚式に、お貞も佐野も、親兄弟が来たような描写が全くない(「親類」がいるという描写のみある)のは疑問ではあるが、、)
しかしその挙式準備がどうも、
・綱(長野母)が担当した準備 - 質素にされている
・長野父が担当した準備 - そこそこお金をかけてある
とも読めるのである。
3(1)お綱(長野母)の準備
上記引用のように、女性側・お綱の仕度は簡素にしたものだと示されている。
また引用前半の芳江の発言は、芳江に「鼈甲」と「卵甲」との区別やその価格の高低がわかるはずはないので、直が芳江にわざわざ教えていたものだと思われる(直による長野母もしくはお貞への嫌味か?)。
3(2)長野父の準備
これに対して長野父は、それなりにお金を遣い、お貞への気遣いを示していると読める。
また、式の現場における仲人役を、岡田ではなく急遽、一郎夫妻が務めている。
私はこの時、岡田が仲人役でありながら妻のお兼を連れて来なかったのは、お兼がこれからもしくは今後も、佐野と不貞する予定だから気まずかった、と解釈した。
それと両立し得る解釈として、これは長野父が、嫁いでいくお貞への、はなむけをしたのでは、とも思った。
岡田・お兼夫妻がするよりも、長野家の長男夫妻である一郎夫妻がするほうが、「名誉」であるだろう。
仲良さげにしてはいるが、長野家からすれば岡田・お兼夫妻は、
「下卑た家庭に育った」、自分達よりも下の「階級に属する」、「岡田なんぞから」金を借りる義理はない、「たかが将棋の駒」な人間なのである。
そして、上記のように岡田は、「将棋の駒」である。
これは外見だけではなく、主人である長野家の、思うがままに動く駒だとの意味だ、と私は解釈している。
そんな将棋の駒が、今回は長野父の思うとおりに動き、お兼を連れては来なかった。
お貞の媒酌人を、一郎夫妻に務めさせる名誉のために。
急に当日変更したように見えて、実は元々そのつもりで、長野父も岡田も考えていたらしきことも、示されている(すぐに長野父に一郎夫妻にしてもらうよう相談した岡田、「お前達は何もしないで済むようにちゃんと拵えてあるんだ」とあっさり言い切る長野父)。
ここまで来て急にふと思ったのだが、
「お貞は、長野父・一郎・二郎、この3人全員と、関係を持った」
この解釈も成り立たないだろうか。
また「行人」を、読み直してみたい。
4、追記 岡田への手紙
読み直していたら、長野父がお貞の結婚について、やはり消極的なことを示す描写があった。
二郎が家を出て下宿する旨の挨拶に来た場面
既に退職して時間はあるであろう長野父が、岡田からのおそらく重要と思われる問合せに就いて、返事を遅らせている。
この描写もやはり、長野父がお貞の結婚に消極的であり、お貞を手放したくはないことを示したものだろう。しかしお貞は大人気だ。
5、追記2 控えめなところが逆に怪しい
これまで指摘してきたように、長野父はおそらくお貞を気に入っている。しかしそれが全て控えめであり、露骨には目立たない。
それが逆に怪しい。
この点、二郎は他の家族の前で堂々とお貞をからかっている。また一郎も怪しげではあるが他の家族の前でお貞に「結婚は顔を赤くするほどー」と語り掛けたり、結婚前夜に三十分ほど二人で話し込んだことも他の家族や岡田も把握している状況下である。
これに対し、長野父のお貞に対する好意の示され方はあまり露骨ではない。
それが逆に怪しい。
もしかしたら性的関係はなく、長野父の片思いか。