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漱石「こころ」考察7 明治45年の「こころ」


1、前提

夏目漱石の大正3年(1914年)連載開始の小説「こころ」

「こころ」は漱石作品の中では珍しく、物語の進行が現実の歴史で〇〇年であったのか、特定が可能です。
(他には伊藤博文暗殺事件が生じる「門」ぐらい)

前の記事でもふれましたが、「こころ」で書かれた実際の歴史的事件の日付について再確認します

明治天皇崩御
明治45年(1912年)7月30日
乃木希典夫妻自殺
大正元年(1912年)9月13日
(上記と同年ですが既に「大正」)

これをふまえて、明治45年の「こころ」について語りたいと思います。


2、明治44年の「こころ」


2(1)「私」の帰省

まず、後の記載から明治44年であると特定できる「こころ」の出来事についてふれます。

 冬が来た時、私は偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
(略)
 冬休みが来るにはまだ少し間があった。私は学期の終りまで待っていても差支あるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを嘗めた私は、とうとう帰る決心をした。

(「上 先生と私」二十一)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

こうして「私」は冬休みになるよりも前に実家に帰省します。
これは普通に考えれば、その年の12月半ば頃に移動したと思われます。

ちなみに「私」の実家は「田舎」とされるだけで具体的な地名は明かされていません。私は各描写から「岩手か青森」と思っています。


2(2)実家で年末年始の描写なし


「私」は実家で年越ししたと思いますが、年末年始の行事や年明けの瞬間、親戚回り等についての描写が一切ないのです。以下、章をまたいで引用。

 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐になって来た。これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待されるのに、その峠を定規通り通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した
(略)
私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
 私は自分の極めた出立の日を動かさなかった。

 二十四

 東京へ帰ってみると、松飾はいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった

(「上 先生と私」二十三~二十四)

私の誤読がなければ、以下の流れのはずです。
・冬休み前(12月半ば)、東京から実家に帰省
・実家で年を越す
・年明け後、既に「正月」の雰囲気が消えた頃に東京に戻る

後に「中 両親と私」での帰省時(夏~秋)には、田舎の近所付き合いの煩わしさについて語られています。しかしそれがこの年末年始では一切ふれられていない。
さらには年を越したこと・年明け自体が全くふれられていません。読んでいて引用の「松飾は正月めいた景気はなかった」から、あれもう年明け?と思ったぐらいです。

ここで何も語られなかったのは意味があるのでしょうか。またいつか考えたいと思います。

3、明治45年の「こころ」


ようやく明治45年(1912年)になりました。
まず小説中の出来事について列挙していきます。

3(1)明治45年1月から7月14日まで

まず、私と先生とがともに東京にいた7月14日までの出来事です。

明治45年
1月
・「私」が田舎から東京に戻る。先生宅に金(旅費)を返しに行き、土産の椎茸を渡す
・私が大学の卒業論文に取り掛かる(4月末締め切り)

(その後、卒論で多忙な「私」は4月下旬まで先生宅には行かなかった)

初夏
・久々に「私」が先生を訪ね、散歩中に植木屋に。先生が「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」「血のつづいた親戚のものから欺かれたのです」等と語る

7月11日
・「私」が帝国大学(東大)を卒業
(後に卒業式に明治天皇が来たと「私」は語ります。その記録は残っているらしく、卒業式がこの年月日であると特定できます)

 その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇のご病気の報知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は、一軒の田舎家のうちに多少の曲折を経てようやく纏まろうとした私の卒業祝いを、塵のごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
 眼鏡を掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸になった陛下を憶い出したりした。

(「中 両親と私」三)

同じく明治45年7月11日の夜、「私」が先生宅で夕食を取る。先生「静、おれが死んだらこの家を御前に遣ろう」等と話す。私は帰りに学友に会って酒場で話す。

・翌7月12日
「私」が書物や実家から頼まれたものを買い込み

7月14日
「私」が帰省(私は暇乞をする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った)。


3(2)明治45年7月21日


7月21日
・明治天皇が重体であるとの報道を「私」やその父が知る。
(新潮文庫の注釈やウィキペディアによれば7月20日に宮内省が発表)

そして、これ以降から、「私」の田舎と、東京の先生宅とで話が同時進行になります。

3(3)明治45年7月30日


7月30日

・明治天皇崩御。

「私」の実家では

 崩御の報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己も……」
 父はその後をいわなかった。
 私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿の球を包んで、それで旗竿の先へ三寸幅のひらひらを付けて、門の扉の横から斜めに往来へさし出した。

(「中 両親と私」五)

同じく明治45年7月30日、東京の先生宅

 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白に妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。

 五十六

「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

(「下 先生と遺書」五十五~五十六)

ここで私が重要と思うのは以下の二つです。またいつか詳しく論じたいと思います。

① 先生に「殉死」を(冗談で)勧めたのは、静であること
② 先生が「遺書」において①の旨をわざわざ明記していること


4、大正元年の「こころ」


元号が変わって「大正元年」(もちろん1912年のまま) 

4(1)大正元年9月12日まで

大正元年
8月半ば
・「私」が友達から手紙を受け取る
・「私」が両親の要望で先生に就職斡旋を求める手紙を出す

9月始め~9月12日まで
・「私」が東京へ戻る日を決めるも、父が倒れ取りやめに
・父が再度卒倒。「私」は九州の兄へ手紙、妹へは母から手紙
・さらに「私」が兄・妹に向けて電報を打つ
・兄、妹の夫「関」が実家に来て滞在する

(この間、東京の先生宅の動きは明記はなし)


4(2)大正元年9月13日


9月13日

・乃木希典夫妻自殺

「私」の実家

 乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった
 何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私も実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
 その頃の新聞は実際田舎ものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。私は父の枕元に坐って鄭寧にそれを読んだ。読む時間のない時は、そっと自分の室へ持って来て、残らず眼を通した。私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。

(「中 両親と私」十二)

東京の先生宅

 それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐すわって、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
 私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那なが苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。

(「下 先生と遺書」五十六)

また詳しく論じたいのですが、乃木希典夫妻自殺の報道を見た父が「大変だ大変だ」と言った際、「私」の兄と、妹の夫の感想は明記されています。
では東京で先生が「殉死だ殉死だ」と言い出した際、静は何を思ったのでしょうか。

その時夫婦がどのような会話をしたのか、遺書には書かれていません。

また、「私」は新聞の写真から、乃木希典の妻についてもふれています。
しかし、先生は一言も、乃木夫人についてはふれていません。
この違いの示すものは、なんなのでしょうか。

4(3)大正元年9月14日以降

大正元年
9月15日か9月16日
・先生が自死を決める

 それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。

(「下 先生と遺書」五十六)

9月16日以降
・先生が「私」宛に「一寸会いたい」旨の電報を打ち、それが届く
・「私」が先生に、父の病気のため会えない旨の電報と、手紙を書く
・父の友人「作さん」が見舞いに来る
・「私」の手紙投函から二日後、先生から再度電報が届く。同日、父が浣腸をされる

これもまたどこかで考えたいのですが、先生からの二度目の電報、「作さん」の見舞い、浣腸の前後関係がえらくわかりにくい描写になっています。

 私の書いた手紙はかなり長いものであった。母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛で届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。
(略)
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」
 私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。
 その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸などをして帰って行った。
(略)
子供の時分から仲の好かった作さんという今では一里りばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨ましいね。己はもう駄目だ」
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
(略)
 浣腸をしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。

(「中 両親と私」十三)

このように、小説中の描写では、
・先生から二度目の電報届く → (同日)医者が来て父に浣腸 → 作さんの見舞い
なのですが、実際の時系列では
・作さんの見舞い → 二三日後に先生から二度目の電報届く+同日に父に浣腸
となるはずです。

ということは「作」さんは、先生からの最初の電報が届いた時か、あるいはそれよりも前に来ていたということでしょうか。またそれをわざわざわかりにくく描写した意味は一体?

作さんの「かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもない」とは、まるで先生が自死した後の静を暗示しているようです。
(もっとも何人かの人が推察するように、私も、静は先生の死後「私」と関係し子を持ったと思っていますが)

4(4)大正元年9月下旬

(「私」の実家)
・「私」と兄が実家の押し付け合い
・父が「乃木大将に済まない。実に面目次第がない。いえ私もすぐ御後から」、「御光御前にも色々世話になったね」と言う
・先生からぶ厚い手紙が届く
・父に再度浣腸
・「私」が東京行の汽車に飛び乗る

(東京の先生)
・先生が静に「市ヶ谷の叔母」に看病に行くよう勧める
・先生が遺書を書き上げ、私に投函


すると、父が「乃木大将に済まない」とうわ言を言っていた頃、先生は遺書を投函したのでしょうか。

また考えてみたいことが多数出てきました。これが漱石作品を読む楽しみです。

一つ、明治45年7月30日に気になることがありました。
では殉死でもしたらよかろう」と、夫に向かって言った静・かつての「お嬢さん」についてです。
この人、夫の友人であり、自分も親しくしていたKが、ナイフで頸動脈を切って死んだことを、当然知っていて、この台詞を夫に言っているんですよね。「殉死でもしたら」と


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