ブルース・フィンク『ラカン派精神分析入門』を読んで
精神分析は分析主体と分析家との言葉のやり取りを通して行われます。「分析主体」とは精神分析を受ける患者を指し、「分析家」は治療者を指します。
分析主体が自分の考えていることや苦しんでいることについて話し、分析家はその言葉のなかから、分析主体が直面している問題を読み取ります。
それでは、「何を言わんとしたか」と「実際に言ったこと」の違いとは何でしょうか。
まず「言わんとしたこと」です。当然ですが、患者は言葉に自分なりの意味を持たせて話します。これについてラカンは、「意味は想像的なものである」という言葉を残しました。
「想像」とは、分析主体が自分に対して持っているイメージのことです。私はこのような人間です、というイメージは、事実かどうかとは別に誰もが持っているものです。そして、ひとが話す言葉は、その自己イメージから大きく外れないように用いられています。だから、分析主体が「言わんとしたこと」、すなわち言葉に持たせた意味は、彼自身の想像と矛盾しないものになります。
一方、「実際に言ったこと」は、これとは別のレベルの言葉を指します。ひとことで言えば分析主体の無意識が話したことです。分析家が注目するのは、分析主体の言い間違いや、昨晩見た夢の内容といった、彼自身の意識から外れた領域の言葉です。
分析主体にとっての想像的な視野からは外れた、単なるミスのようなものですが、分析家はそこに大事なものを読み取ります。読み取るのは、想像的とは異なる、「象徴的」と呼ばれるレベルの出来事です。
想像と象徴は、精神分析における大きな二項対立です。想像は自己イメージ、意識的にコントロール可能な世界を指します。一方、象徴は自己イメージそのものを制限する世界で、自分ではコントロールできない、むしろ自分をコントロールしてくる世界のことです。
想像(界)と象徴(界)は、そのものずばりの端的な定義がなく、私の知識では色々なたとえ話で少しずつ輪郭を探っていくほかありません。もう少し言葉をならべます。
以前、この本とは別のところで教えてもらったのは、象徴とは義理の世界で、想像とは人情の世界だということです。たとえば自分の子どもが「おもちゃが欲しい」とねだってきたとき、「運動会でがんばってたし、買ってあげようか」というのが人情です。「でも、ねだったら買えるというワガママを覚えさせてはいけない」というもうひとつの意識も働きます。これが義理です。
人情とは目の前のひとや私の間で生じる意味の領域であり、義理とは目の前の人間関係を超えて守るべき社会的通念や道徳、法のようなものを指します。これをラカンの言葉でいうと、想像と象徴になります。
やや脱線してしまいましたが、時間がないため一旦ここで終わらせます。
最初の言葉に戻ると、精神分析では分析主体の「言わんとしたこと」=彼が意識的に意味付けした言葉ではなく、「実際に言ったこと」=無意識に言ってしまうことを重視します。精神分析において最も重要な秘密は、分析家でも分析主体でもなく、分析主体が「いやそんなこと考えてないよ」と否定するような無意識に眠っているということです。
ここまで書いてみて、自分の中で無意識と象徴の関係があいまいだと分かりました。これから整理していきます。