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アレント「道徳哲学のいくつかの問題」

1965年、60歳を目前にしたハンナ・アレントは、「道徳哲学のいくつかの問題」と題した講演を、ニューヨーク・マンハッタン島にあるNew School for Social Researchという大学で行った。

講演は、イギリス首相チャーチルの引用ではじまる。「わたしが不可能であると信じてきたか、そう教えられてきたことで、起こらないことはなかった」。
不可能であるはずなのに起こってしまったこととは何か。第二次世界大戦下にナチス統治下でおこなわれたユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)である。
自身もユダヤ人であるアレントは、ナチスがドイツで政権をとった1933年にドイツを逃れて難民となり、一時はフランスで収容所に送られるも、やがてアメリカへと亡命した経験をもつ、ホロコーストの当事者である。
1961年、ユダヤ人問題の責任者であったナチス官僚アイヒマンの裁判を傍聴し、記録として出版した『イェルサレムのアイヒマン』はすさまじい非難を巻き起こした。その論争のなかでとりわけアレントを戸惑わせたのが、「私たちすべてのうちにアイヒマンがひそんでいる」という反応である。紋切り型の官僚用語を繰り返す被告をアレントは「凡庸な悪人」と形容したが、そんなアイヒマンを少なくない人々が擁護したのである。悪いのは組織であって、個人ではない。
ホロコーストはナチスのエリートだけではなく、「普通の人々」の協力によって実行された。そして戦後20年経った今も、アイヒマンは普通の人と変わらないと擁護する世論がある。ここで問われているのは道徳であるとアレントは考えた。戦時下においても戦後においても、道徳はまったく省みられないものになっている。人々が立ち返るべき基準ではなくなっている。

こうした問題意識からアレントは、これまでの哲学において道徳という概念が何に支えられてきたのか、その歴史をたどり直す。
20世紀のある時期まで、道徳とは自明のものだった。根拠を問うべきものではなく、誰もが分かっていることだった。善とは規範に従うことで、悪とは規範から例外的に外れることだった。だから、論理学や形而上学といった哲学の一ジャンルとしての「道徳哲学」は存在していなかった。哲学者が問題を語るとき、それは道徳ではなく別の何かに起因すると思われていた。
いまや、道徳は自明のものではない。とりあえず今日は従っていても、明日になれば(首相のように)変わっているかもしれない一時的な習慣にすぎない。揺らぐことを考えもしなかったものは、いつの間にかスカスカの頼りないものになっていた。その事実は哲学の外からやってきた。

「自明とされてきたものを疑うこと」は、1960年代以降の現代哲学においてはスタンダードな態度である。だが、それが哲学の言葉ではなくホロコーストという現実の出来事に先んじられてしまった。アレントは哲学者として、ひとまず現実の後を追わなければならない。
難しい立場である。なぜなら、道徳はすでに負けている、という事実から出発しているからだ。まるで、内部告発によって耐えがたい内情を世間に公表された組織が、後になって調査委員会なるものを立ち上げて、何があったのかをたどり直すようなものだ。
講演には、「アウシュビッツ以後、人間の道徳はこうあるべき!」といった強いメッセージは含まれていない。もしかすると他の著作には含まれているのかもしれないが、少なくともこのテキストにおいて、「そんなことが言えれば苦労はない」という苦い認識を著者が手放すことはない。アレントはむしろ、「こうあるべき」という規範は何を根拠としてきたのかを考えようとする。道徳を成立させるための条件を洗い出そうとする。
なぜ従来の哲学は道徳を自明であると言えたのか。自明であることは、なぜ自明であったのか。「道徳哲学」の「いくつかの問題」をひとつに集約するなら、このような形になると思われる。

では、哲学において道徳を支えてきたものは何だったか。
道徳は、人間のなかで「思考」し、「判断」するという二つの段階を経て成立する。コーヒーマシンのなかで豆が挽かれ、湯が注がれるように。アレントは思考についてをソクラテスから、判断についてをカントから、それぞれの言葉に依拠して定義する。

まず、道徳の第一段階である思考は、「心が沈黙のままに自己と行う対話である」と定義される。少し意外な話である。「思考する」とはふつう、心のなかでひとり言を言うようなものとしてイメージされる、単数的な行為だ。なぜソクラテスはそれが対話、双数的なものだと言ったのだろうか。
たしかに普段の思考は単数として意識される。しかし、難しい問題に直面したり、差し迫った事態に身を置かれたとき、自己は「もうひとりの自己」を意識せざるを得なくなる。もうひとりの自己と意見が合わないとき、人間はそれを無視することはできない。仮にいっとき無視できたとしても、その後に罪悪感や後悔が残る。他人と議論して決裂したらその場を静かに離れればよいが、もうひとりの自己と決裂しても離れることはできない。そいつはずっと自分の中にいて、こちらをじっと見ているのだ。あるいは、自分自身が冷ややかな目で、過去の自分であるそいつを見つめ続けなければならない(アレントは言及していないが、自己との対話ではこうした「入れ替わり」が頻繁に起こるように思われる。どちらも自己だから)。
ソクラテスは「悪をなすよりも、悪をなされるほうがましである」という言葉を残している。悪だと思う行為を実行してしまったら、あとあと悔やんだとしても、罪人としての自己とずっと暮らしていかなければならない。それよりも、他人から悪をなされる方がよい。なぜなら他人とは不調和であっても、自己との調和は保たれているからだ。
古代ギリシャにおいて、人間と動物を分ける境目は「会話できること」にあった。ソクラテスはその能力を「自分自身と会話できること」へと再定義したとも言える。思考すること、自己と対話して調和しつづけることは、そもそも人間であることの条件なのだ。アレントの言葉では「人格」を生み出すのが思考である。
少しだけ現代に目を戻せば、ナチスの組織において、あるいはその統治下の社会で「悪をなして」しまった人々は、「人格を喪失していた」とアレントは言う。他者との調和を選んだことで自己との不調和を抱えてしまった彼らは、あたかも記憶喪失のように、もうひとりの自己を心のなかから消し去ってしまった。アイヒマン裁判で明らかになった悪の姿とはそのようなものだった。「最大の悪とは根源的(ラジカル)なものではありません。それには〈根〉がないのです」。

道徳の第二段階である判断は、これが善なのか悪なのかを決める行為である。哲学史では、善に従うか、逆らって悪を選ぶかという「自由意志」の問題として議論されてきたポイントだ。著者はそのとおり意志と判断の概念史を古代からたどっていくのだが、最後に登場するのがカントの美学的な考察である。結論としては、「善悪を判断する絶対的な基準はない。その代わりにひとは〈共通感覚〉にしたがって判断する」というのが、アレントの考える判断の内実である。
共通感覚とは、カントが「美醜」の判断基準として持ち出してきた概念である。たとえばあるファッションが美しいか醜いかという判断は、一見「ひとそれぞれ」である。当然、カッコいいと思うひともいればダセえと思うひともいる。しかし、それは完全に独立した個人の物差しによって測られているわけではない。ファッションを眺める人々のなかでは、自分が所属する共同体を「おおよそ」代表すると思われる感覚を参照され、カッコいいかダサいかが判断されている。逆に言えば、この共通感覚を共有している(と信じあえる)人たちが共同体を形成する。個人のなかで明確に意識されることは少ないだろうが、ひとは自分のなかの他者の同意をもとめて趣味的な判断を下しているのである。イイネすることの下には、誰かからのイイネへの期待がある。
カント自身は、共通感覚を美醜の基準として描いた一方で、善悪については理性にしたがえば誰にとっても自明であると考えていた。だから、共通感覚論はほんらい道徳哲学ではない。しかしアレントは、旧来の道徳と現代の道徳をブリッジするために、あえてカントの美学的な概念を引用した。道徳は「事実として」趣味の問題になってしまっているということである。それでも共通感覚的なものがあり得るか、という問いが講演においてはっきりと展開されることはないが、続きを書くとしたらここから始まるだろう。

著者はホロコーストとそれをめぐる戦後世論の混乱という、いずれも説明困難な事実から出発した。機能不全におちいっている道徳とはいったい何だったのか。道徳は、ひとりの人間が思考し、判断することで成立する。思考とは(沈黙のうちに)自己と対話することで、判断とは(沈黙のうちに)他者と対話することである。
「道徳哲学のいくつかの問題」はおおよそこんな内容なのだが、じつはもうひとつ、講演の中で何度も言及されているモチーフがある。「躓きの石」についてだ。胃の中でいつまでも消化されることを拒む違和感のようなこの言葉を最後に置いておこう。
新約聖書のなかでイエスは、真の悪人についてこう述べる。彼は「生まれてこない方がよかった」のであり、「大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められるほうがまし」である。こうした人間は、神を信じる者たちにとって致命的な「躓きの石」である。アレントは、悪とは何かを考えるヒントのひとつとしてこの表現を抽出した。
しかし過激な表現である。あらゆる罪を許してきたイエスが、死んだ方がまし、というくらいの悪の存在が想定されている。紀元後の哲学は、こうした究極の悪を扱いかねてきた。スピノザもヘーゲルもニーチェでさえも、悪であろうと存在することそのものは肯定されるべきだ、と考える。悪は、善悪よりも大きな思想(汎神論、弁証法…)に包摂されるものである。しかしイエスの躓きの石はそうした包摂を拒む存在である。更生したり、見せしめになって人々が自戒する材料になることすらできない。どうやっても〈折り合い〉がつけられない。
著者は20世紀において「起きてはならなかったこと」に値する言葉としてイエスを引用している。躓きの石は、これまでの哲学では説明できない悪を表現できる唯一の言葉なのである。アレントはその周りをぐるぐると歩きつづけている。

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