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「安藤昌益ー自然真営道」を読む まとめ8

読了後のⅧ
 「直耕」考③

テレビのニュース、ワイドショー、あるいは報道番組などに出演する学者、専門家、芸術家といった類いのいわゆる知識人、文化人たちは、いかにも高級なことを口にしているように見せるが、それが本当に高級なのかどうかは疑わしい。安藤昌益の言い方にならえば、彼らはみな「不耕貪食」の徒である。自分が生きていくための食料をすべて他人の生産活動に委ね、何一つ自分の口に入れるべきものを自分でまかなうことをしていない。威張っている政治家たち、官僚、役人も、人の衣食住を支える生産従事者が存在しなければ一夜にして消滅する。これがあたりまえに通用するのは人間社会においてだけであり、ことあれば真っ先に窮するのはそういう人々である。これは逆に言えば、食の原料を生産し供給する人々がいて、不耕貪食の輩を養っていると見ることもできる。
 一瞬ではあるが、先の敗戦において日本国内の「高級」は壊滅し、正気を失った。細々とながら正気を保てたのは、自然相手の一次産業の従事者、言い換えると「直耕」者たちだ。この一事をもってしても、何が本当に「高級」であるか考え直した方がよいと思う。
 実業に対する虚業。巷間言われている「高級」はほぼほぼ虚業に属し、それらはみな口と頭を巧みに使いこなし、高級を偽装した詐欺師の所業を行うものと言っても過言ではない。取りようによっては、そう言い切ることもできる。そして、安藤ははっきりとそう言い切った。なぜならばそういう類いの者たちで形成された「私法ノ世」において、「自然ノ世」における平等性が損なわれ、支配と被支配、搾取と被搾取が生じ、本来的な価値の転倒が行われたからである。安藤はそのことに激しく憤り、さらに価値の転倒を希求し、「直耕」が本来的な価値なのだと提唱した。
 安藤昌益が生きた時代では、大雑把に言って9割の食料生産従事者が非従事者の1割を支え、約300年後の今日では1割が9割を支えていることになっている。「直耕」は忌避され、逆に人々は意識的、無意識的に「不耕貪食」に「乗っかって」来たのである。「私法ノ世」の社会は、資本主義社会からこれを超えて消費主義の社会へと進み、言ってしまえば「不耕貪食」の快楽が社会全体で推進されてきた。
 これにはおそらく不可避の部分があるに違いない。
 聖人君子が出現した背景には、すでに「自然ノ世」にその土壌が存在した。現在の社会は微小化した聖人君子たちでひしめき合うが、大きくは初期の聖人君子たちの模倣であり模写であろう。聖化したり俗化したり、亜種だらけになったと言ってもよい。もとをたどれば始祖である聖人君子にたどり着くが、さらに遡ると「自然ノ世」にその萌芽はある。安藤はそれ以前は捨象し、「私法ノ世」の始祖となった聖人君子や釈迦たちを果敢に攻撃した。「私法ノ世」、つまり上下・貴賤・尊卑・善悪などの二別をもたらす国家の制定に寄与したと考えたからである。

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