連載「こころ」とは何か ⑤ ―三木成夫『内臓とこころ』―
要するにその名称、名称の持つ音声の響き、心地よい肉声の響き、それで、幼児は満足するのだと言います。つまり、過去の、繰り返し舐め廻す行為や手にとってしげしげと眺める行為に置き換わるものが、「ことば」というわけです。これはとても大切なところだと思います。特に、名称を聞いて満足する、安心するというところが大事なのだと思います。
さて、幼児と同様、初期の人類もはじめはたどたどしく「ことば」を口にし、少しずつ上手に使うようになっていったのでしょう。「もの」と「なまえ」。「ことば」の発生、それは指示思考、象徴思考の産物です。初期の「ことば」には、だから「もの」と「なまえ」の根源の類似があったはずだと三木さんは言います。
たとえば、これはあくまでも分かりやすい例としてですが、「な・め・く・じ」の語感。いかにも、それらしいです。声が言葉としての機能と意味を持つ。そこには、脳における感覚の「互換」が保証されていなければなりません。少なくとも視覚と聴覚が連合繊維で橋渡しされている必要があります。
原初の人類も、記憶にあるもの、あるいは初めて見るものを指差し、「あー」とか「うー」とか、隣の仲間に教えていたものでしょう。そうして、しだいに、雨を「あ・め」、雲を「く・も」と発声していったのだと思います。
ところで、この「あー」とか「うー」という単音を伸ばす発声は比較的簡単ですが、「あ・め」とか「く・も」を発音することは、相当困難だったと思います。それは、それまでに経験のない、一瞬の呼吸調整、唇や喉の筋肉の操作が必要だったからです。
ことばが使われはじめの頃は、これらに相当の集中力を要したでしょう。現在の私たちは、幼児も含めて、簡単に言葉を話しますが、当初は吃音の人が話し出すような、必死さや一生懸命さがあっただろうと想像されます。教わることがなかったでしょうし、まだ真似るという段階でもなかったと思われます。少しずつ少しずつ、自分で試行錯誤するしかない、そういう状態だったと思われます。