ヒントが散りばめられている世界

何もやる気力がない寒い日。シャワーは寒い、仕方なくお風呂掃除をする。

いつもなら効率性重視でお湯を抜き終わるまでは他のことをするためにお風呂場から離れるけれど、今日は気力がない日。洗濯に使われて残り少なくなったお風呂のお湯が流れるのを眺めながら浴槽のふちをゆっくり洗う。
排水溝へ流れる出ていく水に渦が出来る。小学生の俳句の授業だったかな、国語の宿題のことを思い出す。

俳句の宿題が出された。何か題材になるものはないかな。特に面白い物もこれだというものも出てこなかった。でも宿題はなくならない。とりあえず身の回りのありきたりなことでもいいから書かないと。
そんな今日はお風呂掃除当番だった。浴槽を洗ってお湯張りボタンを押さないといけない。そのためにはまずは浴槽の水を抜かなくてはいけない。水を抜かないと掃除ができない。私は風呂当番。お風呂場から離れてはいけない。浴槽に溜まった水がすべて出るまでずっと見ていた。水の残りが少なくなってくると必ず毎回渦が出来る。その渦を眺めるのがなんとなく好きだった。
一日が終わる前に宿題を終わらせないといけない。お風呂の渦のことでいいか…。
国語の授業が終わり、みんなの宿題も発表された。授業が終わった後だったか忘れてしまったけれど、先生がわざわざ私のところに来て「お風呂の渦、面白いよね。」と言いに来てくれた。あまり小さい頃の記憶を覚えてない私がそれを覚えているということは全員に一言ずつ言っていてあげていたわけではなく、わざわざ伝えに来てくれたのだと思う。雑談のように。

その時はあまり気に留めていなかったけど、心には引っかかっていたのだと思う。自分の意見を主張するようなことをしていなかったし、自分の意見が流されることが多かった。私の視点に共感してくれる人はいなかったし、それが普通なことだと思っていた。自分は人と感覚がちょっと違うから仕方ない。そう感じていた日々の中でのその一言がなんとなく嬉しいという違和感。


大人になり、常識や社会生活が問われる日々にいつまでも馴染めなく、すさんでいく毎日。自分を押さえつけて周りに合わせて社会に溶け込むことができなかった。どうして普通の人が当たり前に出来ることが自分は出来ないのだろうか。私はこの世界では生きていけない。

なんとか自分もこの世界に加われるように頑張り、無理をして、疲れて。元気になったらまたチャレンジして、でもやっぱり出来なくて。繰り返していくうちに”また繰り返すのだろう”と頑張ろうと思えなくなる。無気力にもなっていく。
でも、もがいたおかげで無気力になり、心が忙しい時には見られないお風呂掃除の渦が見られた。
小学校の一人一人を見てくれていた温かい先生のその一言を思い出せた。
どんなに落ち込んでも世界は元に戻してくれるきっかけを散りばめてくれている。

無理をして何とか合わせて世界に参加するのではなく、自分が自分の方法・表現の仕方・視点で世界に存在していてもいい。
その自分なりのやり方を見つければいい。
一般的なレールを歩くのが自分には合わないのに、私一般人ですと着飾る。それは続くはずがない。
着飾らない素直な自分をさらけ出せていたら”続かない”とかはない。それが私だから。”出来ない”とかがない。それが私だから。やろうとしてないわけだから。素だから。

それでも、私の存在に気づいてくれる人もいる。私の視点に共感してくれる人も、それを面白いと思ってくれる人もいる。数は少ないかもしれないけれど必ずいる。
人と違うことを悲観的になるのではなく、それを活かしていけたら自分の周りの世界も明るくなることだろう。それが当たり前になるころには参加させていただく世界ではなく、私を主体とした明るい世界が私の周りに勝手に出来ていくのだろう。

活かし方法を探すのは大変だけれど、きっとこの世界さんはヒントを散りばめてくれているのだろう。
ありがとう先生。
ありがとう世界さん。
私もそんな一人のヒントさんになれるように着飾らないよう気をつけます。

小さい頃よくやってた渦に指を突っ込んで周りには水があるのに私の指は濡れないのが面白くてニヤニヤしながら渦を眺め、お湯がなくなるのを先生の言葉を思い出しながら待つ。たまにはやる気がない日も良いものだ。そんな風に思えたお風呂掃除。

ちなみにお風呂の渦は左回転。

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