罪悪感の足止めなんてもったいない

いろんなこと学んでいくと、毎回
「あの時このことを知っていれば…。」
と感想を言う人によく会う。


私も子どもの頃は罪悪感や自責の念でいっぱいだった。
”もうちょっと他の言い方が出来たのではないか…。”
”考えるだけで行動できなかった。”
”あの時伝えてあげた方が良かったのではないか…。”
過ぎたことに対して自分が出来た可能性について考えてしまう。
でもそれはもう過ぎてしまったこと。
その可能性を考えたところで起こってしまったことは変わらないのに。

出来たかもしれないことを考え、自分を責め、気分も落ち、ネガティブになってもっと”かもしれない話”を拡げる、深める。
そんな悪循環。正直結構しんどい。誰も攻めてないのに、何も悪いことを起こしたわけでもないのに、自分を勝手に攻めて落ち込む。
良いことをした後でもそれをしてしまう。もっとこうしてあげた方が良かったのでは。何か一言付けてあげられたのではないか。

”何をしてるんだろう”と我に返ることも多々ある。誰にも責められてないのに、むしろ喜ばれてることだってあるのに、自分が自分を責めている。
変な癖だ。でも癖はなかなかやめられない。


考え方を変えた。
その主人公が自分じゃなかったら、何と声をかけるだろう?
「その時自分がベストだと思うことを実現したのだから、何も攻めることはない。どこに攻めるポイントがあるのだろうか?」
実際たくさんの人にその言葉をかけてきたと思う。
なぜ自分にはかけてあげられない?
その変な癖で悪循環に入っていることに気が付いたときにそう言い聞かせるようにした。

「しょうがないじゃん。その時のその精神性やとっさの出来事、知識量で自分が思い浮かべられるベストなことをやったのだから。今その時のその状態に戻れても同じことをしたと思うよ。」
言い聞かせることによって無理やりそれ以上を考えるのを辞めさせた。考えてしまいそうになると、意味のないことをするなと。そんなに自分は出来た人間じゃない。考えるだけの可能性はいっぱいあるかもしれないけれどその時の実際肉体を持って行動をすることができる自分の可能性は本当にそこまであるのか?

次似たようなことが起きた時は考えたことを参考にすればいい。その時のために少し引き出しを増やしておくのもいいと思う。知識や可能性は広がると思う。でも、引き出しをたくさん増やすことに時間を費やすよりも有意義なことはたくさんあると思うし、それ以上の”攻め”に入るのは無駄だと思う。
悪いことをして反省しているならする必要はあると思うけど、そうじゃないならだれの徳にもならない。もしかしたら、喜んでいた相手はその事実を知ったら悲しむかもしれない。


本当に自分を責めてしまう人は真摯に向き合ってるから、そこまで相手のことを思って考えてしまうのだと思う。
自然療法を学びに行くとそう涙するお母さんによく会う。
でも、しょうがないその時は他の知識を持ってなかったのだから。
今知れたなら、それをこれから活かしていけばいい。過去に囚われて進めない方がもったいない。
涙するほど相手のことを思えるということの方がたくさんの知識量よりももっともっと大きなモノだと思う。
そう思える自分を素敵と思って過去の自分の未熟さを認めてあげて、必要な成長をしていって、未来に活かしていってほしい。

罪悪感に囚われるなんてもったいない。
そこにエネルギーを注ぐのではなく、そのエネルギーをぶつけられることは他にたくさんあるはず。
まずはそのエネルギーをプラスに変えて自分を褒め称えてあげて欲しい。

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