夢で見た海辺に似ている 〈短編小説〉


 ほんの些細なことに過ぎない。それはたとえば、何処にでもある言葉をつかって、何処でもない世界について仔細に語ることだとか、あるいは、まるで本当に存在しているかのように、架空の人々におしゃべりをさせるだとか。つまり、そのようなことを言うのだが、そういったことは文学が長いあいだ続けてきたことだとしても、それが一体何だというのか。

 

         プロローグ

 海のうえを、やわらかな風がなでてゆく。夜は、月の光で波間を照らしながら、影をひとすじに追いかける。それは、音もなく旅をつづける、蝶の群れ。岬をめぐって、薄青い、煙の神のように、蝶たちは遠洋をめざす。そして、引きずり込まれるような眠りのなかで、世界中のすべての人々は、水平線に消えてゆくその群れを、夢に見たと思った。
 一年ののち、この世界から、海が消え去った。忘れてしまっていた、あの夢のつづきがよみがえり、人々は、ようやく知った。あれが予知夢であったということを。だが、なすすべはなかった。

 海を失った世界の、物語。

           Ⅰ.

 テーブル席で待つあいだ、窓の外を眺めていると、雲の落とした影が、敷石の上に、ゆっくりと這い上がる。そこに、枯葉のいろがまばらに散った。どんな物音をも立てることはなかった。分かっている。それは窓の外の、何かに隔てられた作品のようにも見えた。
 壁に掛けられた絵のなかで、午前の時は流れ、その小さなノートをひらき、鍵となる言葉をいくつか並べてゆく。イェム・カル・ロエナムスはこの物語の主人公である。彼女は白く透きとおって、だれの目にもとまらない存在として、片隅にひとりでいる。黒い髪には、つくりの丁寧な人工の花が飾られている。それは長い年月を、ここではない何処かで存在したのち、イェムの手もとにやってきたが、そのことを彼女は知らない。
「あなたにはこれを…」声がきこえた。
 どんな人だったのだろう。ある日、もうずいぶんと前のこと。記憶のなかの視界はあいまいで、それでも、その印象だけは忘れがたい感覚を保っている。そこはガラス張りの部屋だったと思う。天井が高く、やわらかな光がそそいでいる。温室のような場所だったのかも知れない。そこで、小さな箱を手渡された。蓋をあけると、花の髪飾りが、薄紙に包まれて入っていた。しかし、自分にそれを手渡した相手のことを、彼女は思い出せない。はじめから誰もいなかったのだろうか。そうであったのなら、あの声は何だったのか。
 部屋は…温室のなかは、湿度が一定に保たれていて、植物の気配に満たされていた。どこからか、水の匂いがする。いくつかのキャビネットが配されていて、それらは、いずれもアール・ヌーヴォーのような装飾が施されており、艶やかに磨き上げられていた。扉をひらかなくとも、中にあるものは分かっている。そこには、真空封入されたり、あるいは過剰な酸素に満たされた容器のなかに置かれたりと…さまざまな条件のもとに、無数の種子が管理されているのだった。今でも、イェムが描く鉛筆画のなかにあらわれることがあるこれらのモチーフたちは、その目的よりも、継続する世界からこぼれおちた、拠り所を持たない点の浮遊物として、うたかたのように意識の水面を波立たせる。そして、そのことに耐えきれなくなった時、彼女は、夢から醒めたように、人知れず絵を描くことがあった。そのような事、イェム・カル・ロエナムスの手になる美的な習作や、その綱領については、また後述したい。

 だれも正式な名称を知らず、出入りする人々からはただ〈クキー〉と呼ばれていたその建造物は、かつて、何処かの海辺にあった。あの温室を中心として、取り囲むようにいくつもの小部屋が並び、通路は、らせん状にゆるやかな勾配をたどって、屋上へとつづいていた。そこでは、巻き貝(Couqille)の内部に入り込んだような感覚に、誰もがとらわれた。イェムは、自分がどれだけの季節を、その中で過ごしたのかを、考えてみることがある。記憶を辿りながら…しかし、季節のページを数えあげている途中で、いつもゆるやかな眠りに落ちてゆくのだった。そして、夢のなかで彼女は薄明かりの部屋にいて、イーゼルに向かい、絵筆を手にしているのだが、小さな絵は、いつまでも未完成のまま、いつ為されるとも知れない完成への予感だけを、静謐な窓辺に絶え間なく漂わせている。そのようにして、いつしか、ふと気がつくと、彼女は夢世界の門の見える小径に立っているのだった。
 なるほど、絵筆の先でにじんだ色たちは、たしかにキャンバスへとうつされた。しかし、新たに色を掬い上げるためにパレットのほうへ目を逸らすと、それは消え失せている。そんなことが、何度もあった。そして、夢のなかで、彼女自身も、そのことに何となく気づいているような、ただの気のせいのような、どちらとも分からない思いでいて、時間は、止まったかのように過ぎてゆくのだった。その部屋は、よく夢に現れた。現れるたびに、いつもすこしずつ、何かがちがっていた。何がちがっているのかと問われても、説明することはできないのだが、いつもの部屋であることと、何かがちがっているということは、同じように、たしかなことであった。

 ある日、イェムは海岸に行くことを口実にクキーの外へと出た。もっとも、海岸といっても、そこに海はなかった。そこは、かつて海岸だった場所。目の前にひろがるのは、水平線ではなく、広大無辺ともいえる窪地だった。彼女は足首までの黒いマント、その裾には影をつれていた。砂のうえは、影に撫でられ蒼ざめた。彼女はゆっくりとかがみ込み、貝殻をひろいあげた。そして、そのままクキーへは戻らなかった。冬が始まろうとしていた。花々の眼に囲まれた出奔の途上で、彼女は思った。出口のない城を抜け出すことは、入り口のない城に入り込むことと、何が異なるのだろうかと。丘をのぼりきったとき、後ろをもう一度ふりかえってみた。きっと、だれも自分を探しにはこない。
 やがて、彼女は、〈人工の冬〉という名の街に辿りついた。

           Ⅱ.

 それぞれに異なる動物たちを模ったステンドグラスが嵌め込まれた、数え切れないほどの窓。水平面が紫、垂直面が緑に塗り分けられた階段。かつて、この世に海があったことを人々が忘れてしまわぬようにと、透明なガラス板のなかに泳ぎまわる魚たちのすがたを閉じ込めた幾つものプレート。そのようなものに、イェムの心は静かに魅入られた。彼女は自らの心の在り方を、目に映る世界というものを、つねに疑って、そして、ほんとうはまだ何処かに海があるのだと思った。
 目には見えないほどのゆるやかな速度で衰弱していく花々は、目には見えないほどのゆるやかな速度で花ひらく蕾たちの、地球の反対側にあって、また別な美学に誘うようであった。人間たちは衰亡のことわりに誑かされ、何かを喪失することによってしか掴めないものたちに名前を与えようとしたが、それはどうしても上手くいかなかった。イェムは部屋で髪飾りを箱のなかに仕舞い、細い指先にある爪に魚のすがたを描いた。針のように細い筆の先で、ある思想を辿るような手つきで以て。彼女は注視した物事を、十日間、その細部まで覚えておくことができた。博物館で標本にされている虫たち、展望台からの眺め、書物のページの一字一句、ショーウィンドウにならぶ色とりどりのドレス。そういった物事の記録を、夜になってから、ノートに写しとってゆくのだった。このノートは、かつて誰の目にも触れたことはない。もし、いつの日か、別な誰かがその書き込みがなされた中身を見る時がくるならば、そこにはひどくいびつで、困惑してしまうようなイメージの羅列が見られるだろう。なぜならイェムは、絵を描くということについて、どんな教育も受けてはいないのだし、さらに言えば、自らのなかに保存されてあるいくつもの精緻な視覚イメージたちを、すべて同時に写そうとするのだから。
 心象たちは、夢のなかのように、奥行きのない様相をしていた。それは、現実にとてもよく似ているが、すこしでも視点をずらすと、だまし絵のようにバラバラに分離してしまう、そんな絵だった。もしかしたら、それらは〈絵のようなもの〉なのかも知れない。なぜなら、イェムは絵を描こうとしてそれらを描いたわけではなかったのだから。それは、彼女にしてみれば、自分にとってさえ何であるかよく分からない、その日その日の瞬きであった。

 ある日、もう夜もふけた頃に、イェムがアパルトマンに帰ってくると、その前の通りで舗道の工事がなされていた。どうしてこんな時刻に…と思いながら、彼女は階段を上がり、自分の部屋へと戻っていった。そして、髪をほどくと、窓辺へ向かい、通りのようすを眺めてみた。三人の、アルルカンを思わせる帽子をかぶった男たちが、それぞれに動いて、流れるように作業は進んでゆく。外灯に照らされた彼等のシルエットが、路上に長く映っている。上から見下ろしてみて初めて気づいたのは、立て札に隠れて見えなかった位置の路上に、穴があいているということだった。自動的に、数日前に、カフェーの後ろのテーブルから聞こえてきた会話が思いだされた。それは、土くれを喫するネズミの話であった。もとより海に近い荒野に棲んでいたはずのそのネズミたちが、いつの頃からか、地下トンネルを掘り進んで、それが街の下にまで及ぶようになった。つまり、地面の下に空洞ができてしまうのである。そして、場所が悪ければ地盤が崩れ、穴があいてしまう。そのようなことを、その顔の見えない人物は、困惑したような口ぶりで、同席の相手に話すのだった。どうやら彼は役人らしかった。〈対策案がなくて…〉とか〈そのための予算が…〉などといった言葉が聞こえてくることから、イェムはそう推察した。いま窓から眺めている穴も、ネズミたちの仕業なのだろうか。そんなことを思いながら見ていると、アルルカンのうちの一人が、荷車をかたむけて、小さな砂利をその穴に流し込んだ。そのようすにイェムは不思議な感覚をおぼえた。それは、音のせいだった。数え切れないほどたくさんの、粒状のものが零れ落ちていく音…そのような音を、彼女は何処かで聞いたことがあるという気がした。しばらくのあいだ、その感覚は持続したが、やがて薄れていき、ただ不思議なことが起こったのだという思いだけが、窓辺に置き去りにされていた。彼女はカーテンを引いて、卓上のランプを灯した。いつものノートをひらき、ペンを手にしてみたが、しかし、音を写し取るすべはなかった。
 外では、三人のアルルカンたちが、埋め立てられた場所に敷石を並べなおして、何事もなかったかのように修繕工事を終えると、夜の向こうへと帰っていった。

           Ⅲ.

 朝、青いテーブルクロスのうえに、網目のように光がおちて、波立っている。白い皿がふたつ並べられていて、それぞれに、大きいほうの皿には肉の塩漬け、小さいほうの皿にはレモンとオリーブのゼリーがのっている。そして、すぐそばには、その日に服用する薬の包み。この部屋の住人は、名をフィンユク・ウカナという。フィンユクは〈人工の冬〉の時計塔にある図書館で司書として働いている。彼はその図書館で、何度か、不思議な女性を見かけたことがあった。いや、ある時はその人物は男性にも見えた。花の髪飾りが、何となくその人を女性のように見せていただけなのだろうか。とにかく、その人物は、女性のようでありながら、男性のようでもあり、そしてさらに、そこにいるようでありながら、いないようでもあった。椅子に腰掛けて本をひらくその姿が見えているのに、どういうわけか、ただ空席を眺めているかのような…ただ息をしない椅子とテーブルが、目を向けているがゆえに目に映っているだけ、というような、不可解な感覚がするのだった。
 フィンユクは知らなかった。自分の部屋のすぐ上の階に、その不思議な人物が住んでいることを。もちろん、その人物が、イェム・カル・ロエナムスという名前であることも。イェムはいつでも、書物を図書館内で閲覧するだけにとどめていたので、窓口とのやりとりもなく、名簿に自らの痕跡を残すということもしなかった。彼女は書架から本をとりだし、テーブルの上でページをめくりながら、その内容をすべて記憶してしまうと、またゆっくりと書架にもどすのだった。そのようにして彼女は、これまで何冊もの本を頭の中にしまい込み、部屋へとつれていった。

 食卓を片付けて、ネクタイをえらび、フィンユクは出かける支度をしながら、ふと、ゆうべのことを思いかえした。気がかりな、その、何とも言えないような、穏やかでない、何かの気配。洗面台に置かれていた彼の眼鏡は、床のうえに落ちていた。そして、よみがえってきたのは、夜の眠りのなかできこえた、何かが落ちるような音。窓の外から、それは、たしかにきこえた。
 フィンユクは階段を降りながら、ゆうべ、何か変わったことがあったのだろうかと、管理人に訊ねてみようと思ったが、管理人の部屋の扉には、留守にしていることを示す札が下がっていた。その日、彼は何かを忘却した人物のように一日を過ごした。

 海が消え去ってから、海に関する文献や資料は貴重なものとして扱われた。図書館には、専用の書架が設えられて、とくにめずらしい初期の海図であるとか、地学、海洋学の分野の初版本などは、館内の中央にある円形のガラス箱に入れられて、展示物の体をなしているのだった。フィンユクはそれらの管理を任されていた。あるとき、天窓からのやわらかな光に照らされて、書架に並んでいる書物のうちの何冊かが、かすかに虹色の煌めきを見せていた。彼はその書物に歩み寄り、手にとってみた。ページの間に何かが挟まれている。そっとページをひらいてみると、黒々とした蝶の翅が現れた。どうやら、光を反射していたのは、蝶の鱗粉らしかった。その本は、地学のなかでも、とくに海洋の地形に関するモルフォロジーを取り扱う内容のもので、翅が挟まっていたそのページには、波の侵蝕によって形成される海浜の地形についての記述と、その例として、海岸にできた洞窟の写真図版が載せられていた。…これは、いつからこの本に挟まっていたのだろうか。そして、なぜこのページに挟まれたのだろうか。フィンユクは鱗粉のついた他の書物も順にとりだして、調べてみた。やはり同じように、蝶の翅が挟まっていた。そして、そのページには、同じように、海辺の洞窟の図が掲載されているのだった。刊行年も著者もそれぞれに異なっているにも関わらず、それらの図版に写る洞窟は、とてもよく似ていた。まるで、同じ場所を撮影した写真であるかのようだった。あきらかなことは、この翅は、だれかの手によって意図的に挟み込まれたということ。そして、その人物は、海辺にある洞窟というものに執着していたということ。いや、今も執着し続けているのかも知れない。なぜなら、数年前にこの専用の書架が設置され、書物の選定をした際には、翅の存在に気づかなかったのだから。
 フィンユクは、その不可解な書物たちを引き上げ、自分の事務机の隅に、とりあえず置いておくことにした。しかし、かといってこれをどうするのか?と自らに問うてみても、何をどうすればいいのか、分からなかった。

          Ⅳ.

 海辺にて。
 髪をリボンで結んだ少女が、波打ち際を歩いている。その足あとを、寄せる波がならしてゆく。見ると、小舟ほどもある水晶の繭が、砂浜に打ち上げられていた。透明な外殻をとおして、内部にあるものが光を受け、微かな虹色の輝きを見せている。それは、かつてだれも見たことがないほどの、夥しい数の蝶のさなぎであった。
 少女は、この不思議なものが自分の目の前にあることを、不思議だと思うこともできずに、これが何処からやってきたのかという疑問にも思い至らずに、ただそれを眺めていた。思考や感情が欠如しているわけではなく、この水晶の繭が、見慣れた海辺にあるものたちと、あまりにも違いすぎているせいで、自らの内面のざわめきを言葉に置き換えることができずにいるのだった。そして、これ以上眺めていてもどうにもならないというふうに、彼女は歩きはじめた。どういうわけか、ひと足ごとに、ゆっくりと、眠りの国に誘われるようであった。やがて辿りついた、海岸のはずれにある洞窟のなかで、彼女は横になった。目をとじて…何処へつれていかれるのだろう。

 夢のなかで、いくつもの季節が流れていった。いつから自分は此処にいたのかと思う。砂のうえで、何をするでもなく、少女は月日を過ごした。一年に一度、あたたかな昼下がり、遠くの森のほうから、一羽の小鳥がやってきて、岬の突端まで飛んでいったかと思うと、くるりと向きを変えて、また森へともどってゆくのだった。その小鳥のくちばしには、ちいさな木の実が咥えられていたが、何年かおきに、それを落としていった。少女はただ黙って、そのようすを眺めていた。何年も何年も、木の実は落ちてくるのか、それとも小鳥とともに森へかえっていくのか、それだけを気にしながら。やがて、途方もない歳月が流れて、岬には、見上げるような木の実の山がそびえたっていた。それでも、少女は少女のままでいた。そして、その年もまた小鳥の日が近づいてきていた。雲がまばらに浮かぶ、あたたかな日だった。森のほうから、小鳥はやってきた。くちばしには、磨かれたような光る木の実が咥えられていた。岬の突端で羽根をひるがえして、木の実でできた山の上空を通過する、その瞬間、くちばしから光るものが落とされた。そして、それは山の頂に落下し、ほんのわずか…二、三粒の木の実に振動を与えた。それで充分だった。あまりにも高く積み上げられた山は、その山頂からゆっくりと崩れはじめ、そして次第に全体が雪崩のような勢いをともない、岬の突端にある断崖をこえて、海へとこぼれ落ちていくのだった。
 少女は呆然とそのようすを眺めた。山が崩れ去っていくその音は、もちろん、夢の光景として響いてくるのだが、どういうわけか、夢の外からもきこえてくるようであった。彼女は、音に手を引かれるように、目をさました。

 目をさましても、夢のつづきのように、海岸のほうから、木の実のこぼれ落ちていく音がきこえてくる。怪訝な思いで、少女は立ちあがり、その音のするほうへ目を向けた。長い夢の果てに辿りついたのは、あのあたたかな昼下がりではなく、月の光に浮かぶ夜であった。…音は…水晶の繭が割れて、さなぎが砂のうえにあふれだす音であった。そして、つぎつぎに孵化していく無数の蝶たちが、青い火のように海辺に立ち昇った。洞窟の入り口から、そのようすを目の当たりにした少女は、あまりの美しさに恐怖し、痙攣し、目を見ひらいたまま、笑い、よだれを垂らしながら走り出した。砂が足に絡みついた。息を吸っても、自らが存在するために必須な元素がとどまることなく失われていく、そんな感覚がした。虚空を、ちぎれるように彷徨う瞳に、切れぎれになった、ここではない何処かの、今ではないいつかの光景が、めまぐるしく映し出されてゆく。花々で造られた砦…神殿の柱の影で物思いに耽る人々…鉱物たちの夢…空中を、地底を、時間のながれの中を、行き来するための小舟たち…手紙を折りたたんで封筒におさめる白い手…巻き貝のなかで過ぎ去ってゆく季節…「科学」という項目のない百科事典…あらゆる卵が燃えあがる…未知の言語で埋め尽くされた書物が水に沈められる…リボンが風に舞う…窓枠にかけられた手…アルルカンたちの影…最後に、ノートに落ちたインクのしずく…耳の奥で、墜落してゆく無重力状態の、さらにその向こう側から、かすかな音が遠くきこえた。
 少女は、砂浜で気を失っているところを保護され、病室へと運ばれた。そこは、〈クキー〉と呼ばれている施設だった。少女は眠りつづけた。いくつもの季節が過ぎていった。九年の年月が流れたある日、彼女はふと目をさました。目をさました彼女は、まだ少女のようであった。そして、何も知らなかった。そして…すべての記憶を、失っていた。海は、すでに消えていた。つまり、彼女は海を知らなかった。

         エピローグ

 管理人と挨拶をかわす機会があったある日のこと。フィンユクはあの晩のことをそれとなく訊ねてみたが、何もおかしなことはなかったとの返事だった。そういえば、あの晩は鋪道の修繕工事が行われていた。もしかしたら、その音だったのだろうか。そのようにして、彼自身そのことを忘れかけていた頃、時おり立ち寄るブラセリで、顔なじみの客から奇妙な噂をきいた。それは次のようなものだった。数週間前の夜、エノクー通りにあるアパルトマンの四階の窓から女性が身を投げた。その女性は、管理人さえもその素性を知らない人物だったが、警察が身元の調査をしたところ、一年前にモユナ海岸のサナトリウムから失踪した患者だということが判明した。さらに調べてみると、その女性は、少女の頃に海岸で昏睡状態のところを保護され、何年ものあいだ病室で眠りつづけたという。そして、その少女こそ、海が消えてしまった謎に深く関与しているといわれ、世界中の研究者たちが行方をさがしていた、ツェーニカ・ユルンだった。だがツェーニカは眠りから目ざめた時、記憶喪失に陥っていたため、施設の職員によって、イェム・カル・ロエナムスという仮の名を与えられたのであった。そのことにいち早く気づき、一人で施設を訪ねてツェーニカに面会した男は、出入り口がひとつしかない温室のなかで消えたという。ツェーニカは、何度訊かれても、最初からだれもいなかったと、それだけを繰り返した。そんなことがあり、数年間を施設で過ごした彼女は、ある日、忽然と姿をくらまし、この〈人工の冬〉へやってきたということだった。
 フィンユクは、噂は噂にすぎないと思い、その話を聞きながした。だが、一方で、自分のなかの何か気がかりなことが、その奇妙な話に結びつけられていくような感覚をおぼえてもいた。いや、ほとんどそれは、鮮明につながったようにさえ思えた。つまり、図書館で見たあの不思議な人物は、イェム・カル・ロエナムス…ツェーニカ・ユルンだったということ。さらに、洞窟のページに蝶の翅を挟み込んだのも、彼女にちがいないということ。そして、あの夜にきこえた音は、彼女が通りに落下した音だったということ。
 最後に辿りついたこの街は、部屋は、彼女にとって何だったのだろう。もし、噂がほんとうなら、海が消えた謎を解く鍵は、永遠に失われたということなのだろうか。

                     (了)


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