ずっと真夜中でいいのに。(頌) 〈批評〉


 誰にだって真夜中の時間は訪れるものだとしても、それがずっと続くわけではないということは、窓の外の空が青く染まっていくようすを確かめるまでもなく分かりきったことだった…。そう、ずっと真夜中でいいのに。の音楽に出会うまでは。

 世界が終わろうとしているのか、自分が終わろうとしているのか、それはたぶん、どちらでもあるのかも知れないけれど、だからといって正しさを放擲してよいことにはならないし、考えることをやめてしまっていいことにもならないだろう。そんなふうにACAねの歌声は、わたしたちの手のひらから零れ落ちてゆく何かを掬ってくれる。たとえば冬の冷たい街を、夏の終わりの喪失感を、迷いながらも歩き続ける人々を、そして恐らくは彼女自身を、意味もなく、音楽にのせて、揺らしながら。
 朝の光に照らされて、見たくもないモノまでが浮かび上がってくるとき、わたしたちは、ずっと真夜中でいいのに…と思うのか。毎日綱渡りをしていても、だれも褒めてなんかくれない。足を踏み外して落ちてゆく人を助けあげる余裕もない日々のなかで、仮初めではない何かを探し続けることの難しさを知る。いつも帰り着く先が電子端末の明滅する光のもとだとしても、それでかまわないと思ってしまっている自分に、どんなことを言ってあげられるだろう。つなぎとめておきたいものが、まだあるのなら、不相応な澱んだ光を振り切って、走り出すことができるのなら…。そんなことをぐるぐるとかき混ぜて飲み下す夜に落ちてゆく。それがすなわち歌なのだと気づかせてくれるのが、ずっと真夜中でいいのに。の音楽なのかも知れない。かつて、ありふれた日常が無限分割される通信回線の彼方で、相対性理論の奏でた音楽がそうであったように。その残響の消え去った場所からひとつの音をきらめくようなファンクネスにのせて、ずとまよは世界を更新してゆくだろう。
 消費されることをモノともしない音楽がここにはある。真夜中はずっとつづいてゆく。

(了)

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