ブルーランド回想録 n.3 〈連載小説〉
次の日、空が暗くなるのを待ってから私はコンビニへと出かけた。もしかして、私のこと、忘れてないかな。いやそんなわけないよね…、瞬間的に発動するネガティヴ思考…この性格ほんとどうにかしたい。すこしだけワザとみたいに上を向いて、息をしてみる。とにかく、借りたものは返さなくちゃいけない。なんて自分に言い聞かせたものの、私はコンビニに着いてもすぐには中に入れず、しばらく外からようすをうかがったりしていた。そしてお客さんがいなくなったのを見計らって、思いきってドアを開いてみた。
あの子はすぐ私に気がついて、微笑みながら小さく手を振ってくれた。いやいや、待って…クールな女の子だと思っていたのに、こんな表情するんだ…。
「ご、ごめんなさい、お仕事中なのに…」
「んーん、全然いいんですよ」
「これ、…ありがとうございました」カウンター越しに傘を手渡す。
「…いえ、お役に立てたなら…よかったです。あ、とても良い色…」彼女はすぐにネイルに気付いてくれた。
「え、あ、ありがとうございます…えっと、青色、好きなんですか?」
「はい、ブルー系の色すきです」
「そうなんですね…その…髪の毛、すごく素敵ですよね…前から、思ってて…」
「わぁ、ほんとですか?うれしい」
「言えた…」
「え?」
「…あ、いえ…その…言いたかったんです」
「ありがとう…、あの、もっと、お話してみたいです」
「え…それは、はい、私もです」
「わぁ、やった。…私、いつも九時に終わるんですけど、そのあととか時間あったりしますか…?」
カウンターの奥にある時計を見ると、あと十五分足らずで九時になろうとしていた。
「え…あともうちょっとで、終わるってことですか…」
「あ、はい、そうですけど…でも全然今日とかじゃなくて、別の日で予定がない時とかで大丈夫なので!」
どうしよう、今日も明日も、この先ずっと、私には予定なんてない。でも今ここで、あと十五分待ちますなんて言ったら引かれないかな…。
「えっと…今日も、全然予定とかないんですけど…」迷っているうちに言葉が先に出てしまった。
「わぁ、ほんとですか…!えっと、あと少しで終わるんで、待っててもらえますか!」そう言いながら彼女はカウンターのなかでぴょんぴょん跳ねた。なんだか、とっても無邪気というか…歳上、だよね…?とにかく、引かれなくてよかった。
「も、もちろんです…っ」
水分が顔から蒸発していくような感覚がする。たぶん、顔が赤くなってる。
「うれしいです…よかったらイートインのスペースで座っててください」
「あ、はい…それじゃ、使わせてもらいます…」
傘を返しにきただけなのに、なんでこんなことに…急展開。なんか、心の準備が…。イートインはガラス面に沿って奥にのびていたので、私はレジから見えない位置に座って自分の顔を確認した。ほとんどメイクといえるほどのこともしていない。もっとちゃんとしてくればよかったな。と言っても私は普段からあまりメイクに凝ったりするほうではない。爪はがんばってるけど、なんていうか、これはオシャレでやってるというより、例えば、フィギュアとか工作に近いような感覚かも知れない。いや、そんなことより、何を話そう?もっと話したいとは思うのだけど、こういう時って、何を話せばいいんだろう。「初対面 話題」とかで検索してみようか…いやいや、なんか違う気がする。こんな場面でネットに頼ってどうするの…。自分でなんとかしないと。
そんなことをぐるぐる考えているうちに、あっという間に時間は経ってしまう。そっと椅子からおりて、レジのほうを覗き見ると、彼女の姿はなかった。今、着替えてるのかな…。私は何をしてるんだろう。しばらくすると、店長らしき人に挨拶をする声がきこえて、真っ黒な私服に着替えた彼女がひょこひょことこっちにやってきた。レースアップシューズを履いているのに、どうして足音を立てずに歩けるんだろう。
「ごめんなさい、お待たせしました!」
「は、はい…!いえ、そんな…えっと、おつかれさまです…」
「えへ、ありがとう…。ね、公園行きませんか?」
「はい、行きたいです。…あ、あの…」
「…ん?」
「…えっと、く、黒…似合いますね…」
「わぁ、ほんとですか。変じゃないかなぁ、このごろ黒いのばっかり着てて…」
「すごく…いいと思います、髪色にも合ってて…」
「ふへへ、うれしいです、そう言ってもらえて…」
公園にはだれもいなかった。私たちは円形の花壇のまわりに置かれているベンチのうちのひとつに腰掛けた。
「あの、私あまり話すの上手じゃなくて…だから、お話してみたい気持ちはあるんですけど、なんていうか…退屈させてしまうかも知れなくて…」もう最初に正直に言ってしまおうと思った。
「え、そんなそんな、退屈とかしないですよ。私だって人と会話するのは得意なほうじゃないです…」
「でも、バイト…してるじゃないですか…」
「レジなんて、そんな会話といえるほどのこと話さないですよぉ、ただの確認作業みたいなものなので…」
「私はそれすらできないかもです…」
何だろうこの話…。私はなんだかおかしくなってきてしまった。
「えへへ、大丈夫ですよ。気にしすぎです」
「ふ…ふふ、なんか、変ですよね…ありがとうございます」
二人は小さく笑いあった。緊張していた心がすこしだけ柔らかくなっていく気がした。
「あ、私は蒼井なゆたっていいます」
そういえば名前も知らなかった。コンビニの制服の胸元に〈あおい〉と書かれた名札が付けられているのは前々から知ってはいたけれど。なゆたって…なんかいい名前。
「…あ、ありがとうございます…私は、佐々木藍です…」
「あいちゃん…ですね。お名前知れてうれしい」
「私も…です」
柵ごしに見える小さな池が外灯の白い光を浮かべていた。
「そうだ、今日のお昼ね、図書館で蛾の図鑑を見てたんです」
「え、ガって虫の蛾のことですか…」
「はい、何となく気になって…。山繭って知ってますか?ヘッセの短編に出てくるんですけど…」
「ヘッセ…そういえば、教科書にのってたような…」
「そうそう、独特の雰囲気があるお話で、そのなかにヤママユガのことが書かれていて、どんな色かたちなのか見てみたくなったんです」
何だろう、口には出さなかったけれど、私は彼女のこういう感性にとても惹かれてしまった。もちろん知り合ったばかりだし、まだ数えるほどしか言葉を交わしていないのだから、未知の部分があるのは当然なのだけど、何というか、こんなまだ入り口のやりとりの中にさえ、私がかつて目を向けたことがない世界を見ている彼女の眼差しが感じられて、気持ちがぞわぞわとした。
「なんかすごいです…」
「え、何もすごくないですよぉ、友達とかいないから一人で本読んだりしてるだけです」
「私も…読んでみたいです、その小説」
「ほんと?じゃあ今度貸してあげますね」
「えぇ…!そ、そんな…貸してもらうつもりで言ったわけじゃなくて…あの、自分で探しますから…」
「私は全然いいですよ…そのほうが次にまた会う理由にもなるかな…って」
これってつまり、また会いたいってことなのかな。どうしよう、どう反応するのが正解なんだろう…。
「…えっと、な、なんでそんなに良くしてくれるんですか…」
「え、そそ…それは…その…ずっと気になってたんです。お話してみたいなって…」
ずっと…?なんで、どういうこと?そんなふうに思ってたなんて、全然知らなかった。どうしてだろう…。頭の中でたくさんの何かが溢れてきて、何だかふわふわする。
「わ、私…そんなにおもしろい人間じゃない…です…」何を言ってるんだ私は…。
「んーん、そんなこと言わないでください。何の説明にもなってないかもですけど、私はあいちゃんに惹かれました。…だから、このまえ思いきって声をかけてみたんです…」
「う…ぁあ、ありがとう…ございます」
ちょっともう自分の処理能力を超え過ぎてて、何を言っていいのか分からない…。
「…あ、ごめんなさい!変なこと言っちゃって…!初めてちゃんとお話するのに、いきなりこんなこと言われても、困りますよね…」
リアクションがバグり散らかして心配されてしまった…。
「…い、いえ、すいません。私、人と話すの慣れてなくて…こんなこと言われるのも…生きてて初めてなので…」
「そうなんですか…?お誘いしたの、迷惑だったらごめんなさい…」
「…いやいや、ち、違いますっ…!誘ってくれたのは…うれしいです、ほんとです…でも、会話の…その…スキルがなくて…」
「…あいちゃん、ゆっくりでいいので、仲良くしてくれませんか?」
「え?…は、はい…ぜひ、お願いします…」
目を合わせることができなくて、彼女の靴のつま先を見つめたまま、私は言葉を絞り出した。何だろう…この気持ちを、なんて言えばいいんだろう。
「そういえば、あいちゃんは本とか好きなんですか?…さっき、ヘッセの小説を読んでみたいって言ってましたけど」
「え…あ、はい…本は…その…読むことは読むんですけど、小説はあまり知らなくて…」
「そうなんですね、小説じゃない本って…例えばどんな?」
「えっと、何ていうか…美術の解説書とか、論文…?みたいなものとか…」
「わぁ、すごいですね。むずかしそう」
「いえ…その…私もあまり分からないまま読んでるので…なんか、恥ずかしいです、こんな話…」
「全然恥ずかしいことじゃないですよ。素敵だなと思います」
「あ、ありがとうございます…」
「あいちゃんは美術が好きなんですね」
「はい…あと、漫画とか、音楽も好きです…」
「とってもいい趣味ですね。私も絵とか好きです」
「ほんとですか。あの…あ、あおいさんって、大学生ですか?」
「んーん、専門いってるんです、服飾の」
「え、すごい…自分で服つくったりするんですね」
「はい、まだまだ下手ですけど、なんか服のお仕事したいなと思ってて…」
「めっちゃ素敵です。だからそんなにお洒落なんですね…」
「全然ですよ…なんか恥ずかしい。…でも、ありがとう」
いろんな光が水面に音もなく映って、あおいさんの話す声がその景色にかさなって…それはいつもの自分の心のなかの独り言じゃない、全然ちがうところから届いてくる言葉の揺らぎみたいなもので…。だれかと会話するのって、こんな感じ…だったっけ。
「…私はあまり先のことを考えてなくて…その、未来のこととか…」
「今は何年生なんですか?」
「いま、二年です」
「まだ大丈夫ですよ、私も高二のころとか、何も考えてなかったですもん」
「…そうなんですか。えっと、じゃあ…いつ、そういうことに興味をもったんですか?」
「んー、高三になって、進路相談とかで…自分が服が好きってことに気づいて…そこからいろいろパンフレット見たり…って感じです」
「そうなんですね…」
「今からなら、何でもできますよ」
さらっとすごいこと言ってくるな。でも、たしかに何を目指したってかまわないのだとは思う。その先でほんとうにそうなれるかは別の話だけれど。
「ありがとうございます…私も、あおいさんみたいに何か見つかるといいな…」
「きっと見つかりますよぉ。私、お手伝いします」
「え、お手伝い…?」
「はい、あいちゃんが、目指すものを見つけるお手伝い」
「えぇ、そんな…なんで」
「あ…ご、ごめんなさい…なんか、またぐいぐい行きすぎちゃってますね…」
「いえ!ち、違うくて…!その、私、こんなこと人と話すの初めてというか…だから…ごめんなさいは私のほうで…」
「…あいちゃん、すごく丁寧にお話する人なんですね」
「え、そう…ですか?」
「はい、私のまわりにはいないタイプの人って感じがします」
「はぁ…」
「だから、話せてうれしいです」
「わ、私も…うう、うれしい…です」
「えへへ、よかったぁ…」
どれくらいの時間が経ったのだろう。そして、おたがいに言葉をぽつぽつと交換した、あのやりとりは、何だったのだろう。あまり遅くならないうちにと駅前でお別れしたあと、私は舗道を歩きながら、何となく沈んだ気分でいた。自分が、全然上手く話せなかったから。でも、別れ際、彼女はまた話したいと言ってくれた。なぜかな。めちゃくちゃまっすぐに目を見て話す人だった。それなのに威圧感みたいなものはまったくなくて…その眼差しはとろんとしていて、眠たげで、やさしくて。不思議な人だった。
外灯のかさの下に、小さな蛾がせわしなく飛びまわっている。なんていう名前の蛾なんだろう。そんな、今まで思いもしなかったことを、私は思っていた。
〈つづく〉
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