スノーランナー 〈短編小説〉


 植物を眺めながら海沿いの道を歩く。何を見ても名前なんかは分からないのだけど、その陽に照らされ風に揺れるさまは、そんな事とは関わりなく私の心を穏やかにさせた。振り返るとポッピが尻尾をゆらゆらしながら、気ままに後をついてくる。二週間ほど前からこのあたりで見かけるようになった茶色い野良猫で、近所の子どもたちからポッピと呼ばれている。人に対する警戒心がないらしく、皆に可愛がられ、民家の庭先で出汁殻のニボシをもらったり、小学生に抱えられて秘密基地の見張り番をさせられたりと、いろいろな場所で優遇されていた。私が浜に向かう石段を降りていく頃には、ポッピの体は半分くらい藪の中に隠れていて、やがて長い尻尾もスッと吸い込まれていった。
 
 砂浜にはいろいろな物が落ちている。貝殻、木の枝、海藻、浮き玉、空き瓶、用途の分からない加工された木片、花火の燃え殻。少し行くと絵筆が落ちていた。誰かここで海の絵でも描いたのかも知れない。この辺の住人にそんな人がいるとも思われないけれど。
 人の気配がして振り向くと、ソノが石段を降りてこっちへ来るのが見えた。私の方を見ているらしいが、手を振ったりとかそういうことはしない。ソノはそういう子だった。いつも履いているローファーにショートパンツ姿で、砂の上をとぼとぼとやってくる。
「先生ここにいるかなと思って来たら、やっぱりいたね」
 踵を踏んでいる靴の中はきっと砂まみれなんだろう。気にも留めていないようだけど。
「天気いいから散歩にきたの」
「何かいいものあった?」
「さっき来たばかりだから、まだ何も...」
「うちも探してあげるよ。先生の好きな感じだいたい知ってるからさ」
 何の他意もないあっけらかんとした口調。二人は黙って足下に視線を落としながら、ゆっくりと浜を進んでいく。遠くから我々はどんなふうに見えるのだろう。海辺にいて、海を見ることもなく、俯いたままでのたのたと歩いていく人影ふたつ。たしか、A.K.ロベックの「地形学」の第11章が「風」という章題で、そこには砂漠の砂の上に風によって形づくられた波模様がどこまでも続くさまと、その砂上に佇む二人の人影を、絶妙な構図で捉えた写真が載せられていたっけ。
 砂漠のことを思うと、様々なとりとめのない空想が浮かぶ。千夜一夜物語。アビシニアの灼熱の彼方に消えた詩人。不時着した戦闘機から歩き出たまま砂の上で途絶えた足跡。眠るジプシー女。どこまでも続く砂を踏みしめながら旅するのはどんな気分だろう。遠い、訪れたことのない異国の地は、文献や写真などでは汲み取れない肌ざわりのようなものがあるのかも知れない。そこに住む人々はどんなふうに眠り、どんなふうな夢を見るのだろう。私からすれば、彼等の現実がすでに夢のようなイメージを纏っている。空想の中の砂漠に、星を散りばめた薄暮が降りてくる。

 ふと、あたりの様子がおかしくなった。景色が、ゆらゆらとし始め、海も空も、何かさっきまでとは違う、絵に描かれた風景のように奥行きがなくなって見える。どうしたのだろう。息が詰まるような、重苦しい気持ちになってきた。心配になってソノを見ると、ずっと向こうのほうで、ぼんやりと立ち尽くしてこちらを見ているらしい。彼女の姿も同じく、水面のようにゆらゆらと移ろうのが見てとれた。波の音のような、色のないような、光の射すような音が聞こえて、私は何故かは分からないが、その音が目の前の光景とちぐはぐに感じて、少し苛立たしい気持ちになった。平ぺったい空を真紅の傘みたいなものがゆらゆらと飛んでいる。風は意思を持っているかのように、その軌道を操り、地上に落下させるどころか、ますます上空へと連れていく。
 私はその様子を眺めながら、ただ息が苦しく、まるで狭くて空気の薄い場所に囲われているような居心地の悪さを感じていた。
 ふと、子どもの頃、田舎の祖母に聞かされた、奇妙な話のことが、よみがえってくる。山に入ってキノコを採った帰りに、道に迷ってしまい、その時に不思議な時間の感覚に襲われたというのである。あちこち歩き回り、来た道を探していると、雑木林の中に不意に木の生えていない平地が現れ、ひらけた空が一面桃色に色づいていた。その美しさにしばらく空を見上げていると、小さな光がふたつ見えた。星かと思ったが、やけに明るすぎるし、なおも見つめていると、それは動いているのだった。ひとつの光がもうひとつの周りをぐるりと巡ったり、追いかけっこをしたり。おかしなことだと思いしばらく見ていたが、その間ずっと、何とも言えぬ時間が伸びる感覚がし続けていたのだという。結局、道は見つかり、ぼんやり山道を下りていくと、家族の人が自分を探しに来たところに出くわした。家に着いて分かったのは、山にいたのはせいぜい三時間ほどだと思っていたのに、実際には半日ほども経っていたということだった。
 私は、どうしてこんなことを...。

「先生、だいじょうぶ?」

 すぐ横で声がした。気がつくと、ソノがいた。私はあわてて周囲を見まわしてみた。景色は、いつもの様子をしている。
「あっちに変なモノがあるんだけど…来て」
 私はもう歩き始めているソノの後を追って、ふわふわとした足取りで砂の上を歩いた。幻の光景だったのか…そんなこともあるのかも知れない。いつのまに拾いあげたのか、右手のなかにあった貝殻を海水で濡れた砂のうえにそっと置いて、朝おかしな物でも食べたかなと思いを巡らせる。まさか、歩きながら夢を見ていたわけでもないだろうし..。

 立ち止まっているソノの足下に、ナイロン袋の塊が見えた。が、近づいて見るとそれはナイロン袋ではなかった。
「これ、何の生き物かな。見たことある?」
 私はしゃがみこんで、その半分ほど砂に埋まっている物を眺めた。たしかに生き物の死体らしい。エイのようだ。咄嗟に思いついたのはそのヒレを思わせる膜のせいだった。しかし、おかしなことに、脚のような物がある。私はその生き物の全体を見ようと、周りの砂を注意深く掘り起こして脇に積み上げた。
「何かな、これ。こんなの初めて…」
「先生も分からないものあるんだね。足あるよね、魚じゃない」
 大きさはカラスくらい。淡い桃色の肌をしていて、羽毛や毛は生えていない。先細りになった頭は滑らかな丸みを帯び、小さな目が顔の前面についている。口はない。というか、口があるであろう箇所から胴体にかけてがひどく損傷していて、何だかよく分からなくなってしまっているのだった。そして、ヒレなのか羽根なのか、どちらにも見える薄い膜状のものが、胴体全体に渡って広がっている。何だこの物体は。
「スノーランナーみたい…すごい」頭の中に浮かんだ言葉が自然と口をついて出た。
「スノーランナー?何それ、そういう生き物いるの?」ソノが言う。
 私の頭の中には、いつだったか現代における奇譚集で読んだ不思議な話のことが思い浮かんでいた。1855年の冬に、イングランドのデボンシャーで起きた出来事である。夜のうちに降り積もった雪の上に、正体不明の足跡が延々と続き、その主は勿論、何の動物による足跡なのかという見当すらつかないまま、未解明の謎として残ったという話。それは蹄の形をしていたのだが、何故か縦に一直線に連なっており、この事から少なくとも四足歩行の動物の足跡ではない、というようなことが書かれていた。そして、不思議なことには、足跡は塀に向かってまっすぐに伸び、その反対側の雪の上にも、同じように、あえて言うなら何食わぬ顔をして続いていたという。つまり、行く手にどんな障書物があっても、足跡はその上を踏み越えて、屋根を越え、干し草を越え、幅2マイルの川を越えて向こう岸にまで、さらにその先へ先へと続いていた。当然ながら騒ぎになり、新聞や知識人たちがその足跡の正体について様々の説を唱えてみたが、どれもこの不可解な事件を覆うには足りぬ心細いものでしかなかった。そんな謎めいた足跡を説明するために、ラッセルという作家が思いついた架空の生き物が「スノーランナ一」である。彼の説が本気だったのかジョークだったのかはいざ知らず、酒落にしては妙に冷んやりとした含蓄のある考案が怪しげで、記憶の片隅に残っていたのかも知れない。曰く、二本足で一直線に歩き、時々羽根を広げて飛び上がる未知の鳥類。
 当たり前の話だが、私たちの想像を超えるものがあるとした場合、私たちはそれを想像することすらできない。想像を超える何者かの痕跡を前に、私たちに出来ることは、昔も今も、さして変わらないだろう。銘々自分の中のありったけの想像力を駆使した、小さな、弱々しい、気が利かない野暮ったさに満ち満ちた、手っ取り早く謎の埋め合わせをしてくれるというだけの、都合のいい化け物の創造。それにしても、スノーランナーというのは素晴らしい命名だと思う。

 帰ってくると、門のところにポッピがいた。今日は暇らしい。玄関の戸を開けたままで台所に行き、缶詰のキャットフードを持ってまた表に出る。ポッピの好物がいまだによく分からないので、学校のそばにある商店でたまに缶詰を買っておくようにしている。
 ソノはスノーランナーの話にひどく興味を覚えたようで、あの謎の生物を誰かしら専門の人に見てもらおうと提案してきた。とりあえず同じ職場の生物の教諭に連絡してみるくらいしか思いつかないけれど。電話をかけると、三回目の呼び出しで出た。
「あ、川上です。あの、中村先生、ちょっと見てもらいたいものがあるんです。生き物の死体なんですけど」
「急ですね、どんな生き物ですか?」
「それが全然わからなくて...見たこともないやつです」
「今どちらに?家からかけてるんですか?」
「はい、その死体は海岸にあります」
「分かりました。ちょうど空いてるんで、昼までにはそちらに行くようにします」
「すみません、よろしくお願いします」

 しばらくすると中村先生はいつもと変わらぬ様子で自転車に乗ってやってきた。カメラを取ってくると言って家に帰っていたソノも、少し前に私の家に着いていて、試し撮りなどと言いながらポッピの姿を写したりしていた。
「ああ、苑田さんもいるの」
「うちが見つけたんだもん。スノーランナー」
「スノーランナー?そういう名前つけたの?かっこいいじゃないか」

 そろそろ陽が高くなってきた海沿いを三人で歩いていく。道々とりとめのない話をする。
「苑田さん、同級生と遊んだりしないの?」
「え、うん、あんましかな。そんなに話が合う人いないし。うち、学校でいちばん合うの川上先生だもん」
「それは知らなかったな。二人は普段からよく遊んでるんですか?」
 私のほうに視線を移して中村先生が言う。
「まぁ、しょっちゅうではないですけど...ソノが散歩ついでに寄ってくれるので」
「川上先生の家、本いっぱいあるからさ。楽しいの。いろいろ教えてくれるし」
 ある時、学校の授業で、何でもいいから好きなように作文を書いてみる、という課題を出した。条件は原稿用紙三枚以上。手書き。何も思いつかない生徒のために、「家族のこと・将来やってみたいこと・好きな食べ物のこと」というお題を三つ添えておいた。少々乱暴な課題内容ではあったかも知れないが、生徒たちはそれぞれに苦心しながらも、文章で何かを現す面白味を感じてくれたようで、提出期限ギリギリにやっつけで片付けてしまったであろう物はひとつも見当たらなかった。そして、ソノはただー人、原稿用紙廿枚以上に渡って、外国のポップミュージックに関する独学の随想を延々と書き記していた。有無を言わせず引き込まれ、私はどうしてもそこに記されている音楽を聴いてみたくなり、読み終えた翌日にソノに声をかけたのだった。
「ソノは音楽に詳しいので、私もいろいろと教わっているんです」
 街のほうへ出ると、中古のレコードを扱う小さな店がふたつあって、ソノはそのどちらにもマメに足を運んでいた。私も何度か連れて行ってもらったことがある。ジャケットが見えるように壁一面に飾られていて、珍しいレコードには高い値段が付けられていたりする。もともと音楽は好きなほうではあったけれど、そこまで詳しくはないし、アナログレコードを買い求めるほどではなかったから、単純にそういう世界があるということに驚き、何か知らない世界の小さな扉を開いたような心地がした。その世界では、ソノは私にとって先生のような存在だった。

 石段を下りて海岸を見渡すと、朝歩いた二人の足跡が残っている。それを辿っていけば、死体に行き着く。我々はまず目印を探した。その場を一旦離れる時に全体に砂をかけて隠し、傍らに流木を立てておいたのである。目印の流木はすぐに見つかった。
 …が、死体は無かった。

「確かにあった物が、ちょっと目を離した隙に消えてしまうみたいなこと、何かで読んだことがあります。僕は二人が見た物が幻だったとは思いません。どうして消えてしまったのかは分からないですけどね…」
 小一時間もあたりの砂を掘り返してみたが何も見つからず、途方に暮れていた時、静かに中村先生が言った。私たちは不思議な体験をしたのだろうか。これがそういうことなのだろうか。爪の間に挟まった砂粒を取りながら、私はぼんやりとしていた。
「変だね。おかしいね…」諦めたような残念そうな微笑みを浮かべてソノが言う。汗のしずくが、こめかみのあたりに光っていた。
「喉かわいたでしょ。うちに帰ってお茶でも飲もうか?」
 
 三人は海岸をあとにして、もう昼を過ぎた眩しいくらいの陽射しの中を歩いた。大きなクスノキの葉影が、地面に複雑な模様をつくっている。この土地に移ってきてもう何年になるだろう。こんな経験はしたことがない。もちろん、ここへ来る前にも。あの死体を見る直前に自分が見た幻のような光景のことを、私は気にしていた。
 家につくと、停めておいた自転車に手をかけながら中村先生は帰る素振りを見せた。
「あ、お茶出しますから、ちょっと待ってて下さい」
「いえいえ、お構いなく。それはそうと、今日のこと、どこかに記録しておくといいですよ」穏やかな口調だった。
「あ、はい、分かりました。すいません、わざわざ出てきていただいたのに」
「いえ、いいんです。むしろ興味深い経験をさせていただいたというか...」

 ソノと二人で中村先生の後ろ姿を見送った後、家に入って冷たいお茶を飲みながら、私はふと思い立って、紙とペンを出してきた。
「ソノ、ここにアレの絵を描いてみて。私も描くから。出来上がるまで、お互いの絵は見ないようにね」
「うん、わかった」
 しばらく二人は無言で、私はソファで、ソノはちゃぶ台で、それぞれに記憶を頼りに紙と向き合った。こんな事をして何になるだろう。海辺を離れる前に、中村先生がふと呟いたことが、私の中で繰り返されていた。
「川上先生も、苑田さんも、女性だということが、何か関係しているんじゃないでしょうか。上手く言えませんけどね、そんな気がしますよ。...これは、悪く取らないでください」
 どうしてあんなことを言ったのだろう…そう思う一方で、私にとってこの言葉はやたらと腑に落ちるところがあった。明確でないながらも、いや、明確でないが故にと言うべきか、理屈を飛び越えて核心をついた分析という気がして。
 いつしかペンはひとりでに動き、それはまるで私の心に薄紙をかけてトレイスしているかのような筆致を描きだしていく。夢を見ているような淡いかぼそい線と、ひとつひとつの主張の強い外観上の特徴とが、アンバランスな風貌となって見る見るうちに成立していく。私はこの時初めて、奇妙な体力の消耗を感じた。そして、そっとペンを傍の机に置いた。ほぼ同時に、ソノのほうも出来たらしい。
 お互いの絵を並べると、二人は黙って、しばらくのあいだ眺め入った。これは誰にも見せてはいけない、というより、誰にも見せる理由がない、そんな絵だった。私の目はソノが描いた絵の中の、黒い芥子粒のような点々を見つめていた。一直線に並んだそれは、雪の上に残された足跡なのに違いなかった。
 何にも邪魔されずに前に進むこと。人知れず。小さな謎の種子が蒔かれた土地には、どんな花が咲くのだろうか。生ぬるい風が窓から吹き込んで、グラスのなかの氷を撫でるような気がした。
 絵を見つめていた顔を上げ、目配せをして、ソノが悪戯そうに笑う。

 彼女が卒業してすっかり疎遠になってしまってからも、私はふとあの時の笑顔を思い出すことがある。

(了)


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