大阪に帰ると涙が出てきそう
今日まで大阪の実家に帰っていた。両親は河内に住んでいて、祖父母は大阪市内にいる。帰るときはもちろん親の家に向かうのだけど、決まって祖父母にも顔を出す。まあ祖父は癌がわかって入院して以来、しばらく会っていない。認知症も進んでいてすぐに忘れてしまうらしい。入院になる前、私が訪れたときには楽しく話しているのに、去った後に誰が来ていたか祖母に尋ねていたらしい。豈不哀哉。そして地方大学に通っていると、大阪の交通がとても便利なことに驚く。交通だけじゃなく、実家のお風呂やごはん、今まで使っていた部屋までもなんだか有難いものに思う。高校生までは当たり前に使っていたものが、今では異質なものに感じられてしまう。これも成長か。
母親とは仲良くしていて、帰省のたびに難波か上本町にいく。日本橋のビッグカメラとか謎にいく。これも親孝行だろうと思って付いていくけど、地下道の出口の煙草臭いパチ屋どうにかならないのかな。健全でないけど、私は肯定的に受け入れている。大学のまわりじゃあんなのないからさ。とにかく、親は普段人生の終盤の時間を過ごしていて、ある種仕方ないところはあるにせよ、否定的な世界に住んでいるように感じる。人生をどう終わらせるか、この先の短い暇な時間をいかに過ごすか、子が離れていく日々にどう折り合いをつけるか、みたいな。あと健康。老人はみなそんな感じだと思うからやっぱりしかたない。
祖母になるとその傾向がますます強くなって、話し相手はだんだんと居なくなっていくし、テレビはつまらなくなってしまって、携帯による娯楽も享受しておらず、まだ若かったころにやっていた手芸は辞めてしまってもはや何もすることはないらしい。なまじ専業主婦でいままでやってきたからこそ、部屋に独りになったときの寂しさよ。祖父母がともにいた頃、そのときはそのときで祖父の愚痴を垂れ流していたけど、今回話をきいてみれば、暇すぎてしょうがないらしい。どっちもどっちだな。
それでも死は間違いなくやってきて、母祖母ともに最近は耳遠く、目も見えず、頬は痩せこけて、すっかり老人になったと見えた。姉も私もとんだ親不孝者だから葬式もろくにできないだろうし、墓の手入れなんてする予定もなかった。祖母は代々之墓へと、一方母は諦観墓はいらぬと宣言する。父はどこか。
別の話題はないのかと言われると、やはり関西弁は落ち着く。上の文章も努めて普通の言葉で書き残しているけど、どこか違う言語のように感じられて、親しみのある文章を書くことができない。関西弁は文字に書き起こしにくいのだけど、一度やってみようか。
なんやかんや大阪に帰ると涙でてきそうなんねん。よう知らん地方のよう知らん人たちと勉強するより、大阪でふらついとったほうが安心すんねん。なんか落ち着くっちゅーかぬくもりみたいなんがあって、夜中でも公園でがら悪い奴らがたむろってても全然気になりまへん。そりゃあ地方とはいろいろちゃいますからな、夜中でもみんな元気ですわ。夜は虫がようけ入ってきますけど、人間も似たようなもんでっせ。
やけどな、ふとまわりみると、ぜんぶ様変わりしとんねん。あのとき遊んだ友達が越してたり、だれも暮らしてへんようなぼろ屋がえらいきれいな二階建てなってたり。記憶とちゃう部分がだんだん増えてくと、なんかみょうに不安に駆られるんですわ。ぜんぶなくなってまうんとちゃうかーて。
いいや、変わってもうたんはこっちのほうや。親に隠さなあかんことをいくつふやしたんやろ。ほんまなんぼだけもの諦めたら気い済むんや。諦めへんもんはいったい何なんや。あんたの人生どうしたいんや。そんな声が聞こえてきそうなる。おわりや。
お母さんによう似てきたなあ、祖母がふっとつぶやいた。あの温かい微笑みを私は忘れない。忘れたくない。曾祖母が死ぬ間際まで私の名前を憶えていたことを忘れない。百円で老人の車をころころと持って行ったおさな心を忘れたくない。祖父の人生を忘れない。祖父の貢献したダムにはきっといつか訪れる。清らかなこの記憶が私をつくっているのかもしれないし、あるいは私をはかいしているのかもしれない。いまはまだ、何も言えない。
心中ではもろもろの観念が入り乱れて、各々の感情は表面で交錯し、それらを受け止めきれない私は、車窓に区切られた初秋の夕暮れとビルの影とをぼんやりみながら、ふたたび一人で生活しに戻るのだった。
詩にもせぬ情けの果てよ秋の暮
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