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ハンバーグよりステーキを
私が会社に入社したのは1998年、「日本列島不況」というほど厳しい経済状況の最中であった。やっと入社できたのはメーカー系金融会社。今日こそテレビでCMをしている優良企業にはなったものの、入社当時を思い返すと今でいうところのブラック企業であった。
ある地方支店の営業第一課に配属された私は、これから仕事を覚えないといけないにもかかわらず、その年の11月に大学時代より交際していた女性と結婚する予定であった。まだ23歳と年齢も若かったこともあり、家族を支えていくという責任感もなく、どうにかなるさという楽観的な気持ちで毎日会社に通っていた。
当時は不況の真っただ中。会社としては新入社員を採用したものの教育していく余裕などなく、営業現場ではその傾向が顕著であった。直属の上司はA課長。周りの噂ではA課長は有名国立大学出身であり、本社の人脈も広く、担当時代からさほど営業成績は良くなかったが要領の良さで若くして課長になったとの事であった。A課長は「頑張れよ、まあ体壊さない程度に」と声はかけてくれるが、実践的な事は何も教えてくれなかった。いつ一人前になれるのだろうと多少不安もあったが、叱られることもなかったので会社とは結構易しいものだなと感じていた。
ただ、営業一課は仕事に対するモチベーションも低く、営業成績は低下の一途を辿っていった。A課長は近い内に本社に戻る話もあった為、その状況に焦る様子もなかった。当時若かった私も危機感はなく、毎日のように定時で仕事を終了し先輩と飲み歩いていた。そこで先輩から言われていたことは「営業二課に行かなくてよかったな、あそこは地獄だから」。
営業二課は隣の課であったが、課長は高卒からのたたき上げ、通称「鬼軍曹」。窓際の壁にグラフが貼ってあり、営業成績を達成できない課員には「鬼軍曹」の怒号が響いていた。課員は朝の10時までには営業先に向かい、夜8時に事務所に戻り10時近くまで事務処理をしている。休日も土曜日は出勤。残業時間は月112時間、まさに地獄の軍隊であった。朝「鬼軍曹」に挨拶しても無視をされていた為、私は嫌われていると思っていた。だが隣の課の課長であり、さほど気にもしていなかった。
営業一課に配属されて3か月後、営業推進課長に呼び出された。私はなぜこのタイミングで呼び出されるのか理由が全く分からなかった。部屋に入って席に坐ると、営業推進課長は申告な面持ちで、営業一課の営業成績が厳しい状況である事、とても新入社員を育成できる余裕がないことを私に説明した。そして信じられない一言が言い渡された。「営業二課に転属」。私は翌日から軍隊へ入隊することが決定した。
翌日の朝、恐る恐る「鬼軍曹」にご挨拶に伺った。「鬼軍曹」は私をぎろりと大きな目で睨みながら「俺は厳しいから覚悟しろよ」と仰った。それからは毎日叱咤、叱咤、叱咤。「お前大学も出てるのにそんなことも分からないのか」、「数字をやれないなら会社にいる意味はないぞ」、「次の就職先を見つけたほうがいいんじゃないのか」。3か月営業一課で緩み切った自分に対して容赦ない厳しい言葉に、精神的に落ち込んだ。朝早く出社し、夜遅く帰宅する毎日、体力的にも疲弊した。
先にも書いたが私は11月に結婚することが決まっていた。会社にも報告しなくてはいけない時期に差し掛かっていた。まずは「鬼軍曹」に相談しなくてはならない。多少ご機嫌がよい時をうかがい、「ご相談があります。」と声を掛けた。会議室に入った途端「鬼軍曹」から「お前やめるのか」と言われた。厳しい毎日に耐え切れず、私が近いうちに退職すると思っていたらしい。しかし私は結婚したいと伝えた。すると「鬼軍曹」は一瞬驚いた表情をせたが、「お前こんな厳しい毎日で所帯をもてるのか、相手の方もちゃんとお前の仕事を理解しているのか、会社の厳しさにこれから耐えきれるのか」と強い口調で言った。私の第一優先は彼女と結婚する事だった。どんな厳しい生活をしても彼女と一緒になりたいと考えていた。彼女と結婚する為には、厳しいのは当然嫌だが仕事を続けていないといけない。まだ社会人になって半年しかなっていないが、とにかく彼女と一緒になりたいと「鬼軍曹」に必死で伝えた。
すると「鬼軍曹」は会議室に響き渡る大声で笑った。そしてまたすぐに厳しい表情に戻り「お前な、なぜ俺は仕事をするのか、なぜ厳しい事を課員に課して数字を達成したいのか、なぜ結果にこんなにこだわるのか、お前分かるか?」と聞いてきた。私は正直色々と答えを考えたが正解が分からなかった。私が首をかしげると、「俺はな、自分の子供にハンバーグよりステーキを食わせたいんだ」私の目をまっすぐに見てそう言った。当時の私は言葉の意味は分かったが真意は理解できていなかった。「ステーキよりハンバーグが好きな子もいるのにな」とぼんやり考えていた。
その後「鬼軍曹」の下で4年働いた。毎日過酷ではあったが、私はその過酷な生活が社会人として当たり前だと思い込んでいた。ある意味麻痺していたのかもしれない。毎日何の為に働くのかはあまり考えてはいなかった。別の支店に転勤が決まった時、「鬼軍曹」から「ここで厳しい仕事を4年間経験したからどこに行っても大丈夫だ」と仰っていただいたときは嬉しかった。
時は流れ、今年私は50歳になった。昨年の夏、父親が亡くなった。父親は仕事一辺倒の人間だった。常に私に言っていた事は「仕事の調子はどうだ」「仕事はうまくいってるのか」「最近仕事は忙しいのか」。父親が危篤状態であった時、私は遠く離れた土地にいた。病院の計らいで電話で話をすることができた。私は今すぐそちらに向かうからと父親に伝えると、「来なくていい、仕事が第一だから」と小さい声で言った。
父親が亡くなった後、仕事第一とはどういう意味なのかを考えた。仕事とは何なのか。仕事より大事なものがあるのでは。家族が第一ではないか。そのような事を考えているとき、ふと「鬼軍曹」の「ハンバーグよりステーキ」の一言を思い出した。
今年末っ子が成人したが、私も今まで子供にはできる限り望むものを与えてあげたいと考えていた。やりたい習い事、行きたい旅行、望んでいる進路。ただ実際は振り返ると与えてあげられなかったことのほうが多い。原動力になっていたのは家族。家族がいたから毎日働いてきたのも事実だ。今では古い考え方であることも十分理解している。でも考える。私は子供達に「ステーキ」を食べさせることはできたのか。
平成の終わりから働き方改革という言葉が生まれ、ワークライフバランスという言葉が生まれた。会社は「できるだけ家族と一緒に」「会社に縛られない人生」「休暇はできるだけ多く取得しよう」そう言いながらも給料は下がる一方。もちろんブラック企業はありえない。「鬼軍曹」は社会で絶滅危惧種となった。年を取れば会社から容赦なくリストラされる。そんな親世代を見て育ち、若者は入社した会社に未来を感じることができず、早々に退社する。
私が入社した1998年から時代は変わり、令和の現在、企業は労働力が不足している。学生に対してはバブル期と同じようにお客様扱い。時代は繰り返される事を改めて認識した。しかし「鬼軍曹」が今後現れる事はないだろう。
昭和、平成初期のサラリーマンは仕事第一で働いた。家族第一だから仕事第一だったのだ。「ハンバーグよりステーキ」、もう口に出す事はできない世の中である。この30年で価値観は大きく変わった。家族を持つことが人生の最良の選択肢とは限らない。自分の可能性を広げるために仕事をする、趣味、嗜好品の購入のために仕事をする、それも正しい。
ただ私は「鬼軍曹」のような正直で嘘のない名言が嘲笑されない世の中であって欲しいと願う。