
ヴェルサイユの子育て【コドモハカセと記者の旅】
▼登場人物
コドモ:4歳長女と1歳次女。
ハカセ:建築史家。合理主義者。
私:記者。転職するか迷っている。
▼これまで
家族4人でのフランス旅行。子連れの苦労ばかりがよみがえる「悪夢」のような旅をリベンジするための旅行記。アヴィニョンを拠点とした南仏巡り、リヨンやペルージュの旅を経て、最終目的地パリへ。
▼前回の記事(王子さまのお土産)
<17>
マリー・アントワネットはどんな子育てをしたのだろう。広大な庭園で歩かなくなるコドモにイラっとしたり、育児に悩んだりすることはなかったろうか?
自分にとって2度目となるヴェルサイユでは、そんな突拍子もない思案がしきりと頭を巡った。1度目の時は、ただただ「ベルばら」の舞台に感動していたのだけど。
前日にリヨンからパリのホテルに移っていた私たちは、9時半ごろにヴェルサイユ宮殿に着いた。既に観光客でごった返し、宮殿に入れるのは昼からに。午前中は広い庭園内を散歩することにした。

見渡す限り遮るもののない空、シンメトリーの広大な庭園、豪奢な宮殿、金ピカの噴水など完全にシカトして、しゃがみ込んで石と戯れる次女。小さな背中を押したり抱き上げたりしながら、迷路のような小道を少しずつ進んでいく。
葉が優しくざわめく。木漏れ陽の中を駆けていく長女を、次女もヨタヨタと追いかける。神々の彫刻が飾る泉に噴水が高く噴き上がり、虹を描く。
「とうさま はやく!ぼくが見つけたんだよ トリアノンのお池にかもがきたの!」
漫画「ベルサイユのばら」のワンシーンが脳内に再生され、シャルル王子の声がよみがえってきた。
十字に交わる運河のほとりでカスクートをほおばり、早めのランチをした。ヴェルサイユという大舞台の片隅で小さな家族が営む、ごく小さな幸せ。
また、思ってしまう。アントワネットにもこんな、ささやかな家庭の幸福を感じる瞬間があったろうか?
1661年に親政を始めたルイ14世は、狩猟の館だった場所を壮麗な宮殿に建て替えた。天才造園家ル・ノートルが手掛けた庭園全体は800ヘクタール。東京ドーム171個分とか。とにかく広いのがヴェルサイユである。
宮廷での生活に馴染めなかったマリー・アントワネットは、1774年にルイ16世からプチ・トリアノンを贈られ、この地所に大きな愛着を抱くようになりました。(中略)主に子供たちの教育のために確保されていましたが、遊歩道や客人をもてなすためにもこの集落を使用しました。


宮殿内を巡った後、王妃が愛したプチ・トリアノンとアモー(村里)を訪れた。トリアノンには少数の部屋に調度品が可愛らしく備えられて、実に家庭的で生活しやすそう。居住空間としては劣悪な上に、衆人環視のもと、規律がらめの生活だったというヴェルサイユ宮殿よりも、アントワネットがコドモと住みたくなった気持ちはよく分かる。
ただ、農村風景をしつらえていたものの、内側は豪華な家具を揃え、家畜には香料を振っていたというから、ハリボテもいいところ。素朴な演出のため莫大なコストがかかっており、当時の人々から見ても滑稽で、憎悪を増す効果しかなかったという。

一方、当時はジャン=ジャック・ルソーが唱えた「自然に帰れ」という思想やナチュラルな空間演出、田園風ファッションが貴族の間でも流行っていた。
アントワネットもまた、流行をキャッチアップしていたのだろうし、宮殿育ちの王女や王子を、かりそめでも自然に触れさせたいと考えるのは現代の感覚にも合う。彼女はそこまで特異だったのではなく、むしろ平凡な母親感覚を持っていたのではないか。(予算の認識は無かったのだろうが)
よもや、本物の貧困を知る女性たちがパンを求めて群衆となって宮殿を襲うとは思わなかっただろう。その瞬間、プチ・トリアノンにいたという彼女はどんな思いで、団欒の場所から恐ろしい現実に引き戻されたのか。
トリアノンから出口に向かって長い小道を歩く時、ついに次女が「もう一歩も歩けない」という風情でしゃがみ込んでしまった。この旅で何度目かの「歩かない病」。なだめすかして、抱えて並木道を抜けて最後のグラン・トリアノンを見学する頃には、ぐったりしてしまっていた。
ピンクの大理石に西日があたって、燃えるように美しい。けれど泥のような疲労感をひきずって、早くここを出たかった。長女のトイレを済ませて、見学もそこそこに宮殿の敷地から逃げるように飛び出した。一人で初めて訪れた時は、いつまでも観ていたいと思ったのに、なんと年をとったものだろう。
そういえば、革命が起こってヴェルサイユ宮殿を後にしたアントワネットと、今の自分が同じ年頃だった。悲劇の王妃が、一人の疲れた母親として、妙に身近に感じられた。
〈18〉に続きます。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
なぜこの旅行記を書いているか、興味を持ってくださった方は、こちらもお読みいただければ幸いです。
https://note.com/vast_godwit854/n/n98fa0fac4589