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わたしの生きる道2追記あり

強くない私がどうやって教師をしてきたかを前々回書きました。

まだ足りないところを今回書いてみます。

まず、教育実習で、私が担当したのは附属の帰国子女クラス。チャラい感じの男の先生と話す女子が多く、あまり見向きもしてくれず、同じクラスを担当したもうひとりの女性はそれで心が折れ、教師の道を諦めました。

私は、実習中、バイクで転倒し、松葉杖をついて授業をしました。杖で生徒を指名したのがウケて途中から少し楽しんでいました。

このとき、教師に向いているとは思いませんでした。今も向いているとは思っていません。ただ、私が中学生時代、先生と話をしたことが楽しかったから教師になったのだと思います。

初任の頃、いつも笑っていたのでムニ子と呼ばれていました。荒れた学校で担任をしました。

何人かの家庭環境の厳しい子と仲良くなり、家まで遊びに来ることがありました。また、私を笑わせる担当の子に芸を見せてもらって小学生のように遊んでいました。

そういえば、私が小学校高学年のときも、私を笑わせる担当の男子がいました😊笑い上戸だったんですね。古典を漫画にする授業をしていました。

初期は、国語教育というより、自分の趣味を極めようとしていました。俳句にハマり、夏井いつきさんのイベントへ週末愛媛に行き、様々なところに投句して遊んでいました。俵万智に憧れていました。才能はないけれどたまに選ばれると嬉しかったです。

それが結婚を機に行けなくなり、育児の記録として俳句を作り、ノートに残すだけになりました。家族で句会をしていました。

育児休暇を終えてからは、研究授業に当てられまくりで、国語教育に目覚めました。

相変わらず荒れている学校に赴任しました。でも、生徒はわたしの蘊蓄を聞くのが好きで、毎時間国語通信を10年以上作り続けました。それを全国で発表しました。どんな大変な学校の生徒でも、共通して蘊蓄や本の紹介が好きなのです。

また、息子の小学校入学のとき大学院に行き、研究の楽しみを知りました。

復帰後も研究授業に当てられました。国語だけでなく学校全体の研究も担当し、やりがいを感じました。

プレゼンで生徒のことを語るとき、練習中でも毎回泣くので、他の先生に泣いたらあかん、と笑われました。

特別支援教育にも携わりました。結婚前に聴覚支援学校に赴任し、カルチャーショックを受けました。手話を覚えました。若い同年代の先生と遊び楽しい時間を過ごしました。

生徒に合わせた教育を知りました。

その後ちょくちょく支援学級も担当しました。重い生徒を担当し大変なこともありましたが、教育の基本を学びました。

今も私が担任した支援学級の子に連絡を取っています。というか、連絡があります😊

自分の子を育てる際にも参考になりました。また、生徒を見る目も変わりました。

担任業のスタイルを模索しました。私はどちらかというと、ついてこいタイプではないので、光る君への道長の時代のように、リーダーをたくさん育てて合議制を行いました。

生徒の力を借りました。

班を作り、班で掃除をさせたり、その班でさまざまなことを決めました。

班は私がリーダーに相談して構成員を決めました。先輩の先生のスタイルを真似ました。そのやり方が素晴らしく、生徒に相談しながら学級経営をしました。

行事も生徒が楽しめるよう、活躍の機会を与えました。つまらない顔をしている生徒が笑顔になるよう、考え、リーダーに相談しました。

そうこうしていると、学年主任になりました。主任には主任の悩みがありました。これはまた、別の機会に。

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