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国語の授業が道徳から抜け出るために

加藤 郁夫

1 国語科における道徳的傾向
 
国語の授業はしばしば道徳的な傾向をもつ。物語・小説といった文学作品では特に、その傾向が顕著に見られる。
 石原千秋氏は『国語教科書の思想』(ちくま新書2005年)の中で、国語の定番教材には道徳的なメッセージが含まれており、それゆえに定番教材たり得ていると指摘している。しかし、私がここでいう道徳への傾斜は、氏の指摘とはいささか観点が異なっている。氏の指摘は教材そのものが持つ道徳性を問題とするが、私は教材から道徳を読み取らせようとする国語教育のあり方にも問題があると考えている。
 教科書自体、今の検定制度もあり、どうにも抜け出せない足かせをはめられている。たとえば、学校帰りに買い食いをしている場面を教科書に掲載することは不可能といってよいだろう。教科書教材は、大なり小なり道徳的な要素を持たざるをえない。大事なことは、その道徳的要素を国語の授業のメインに据えるのか、あくまでも副次的なものとして扱うかということではないだろうか。
 教科書には、いじめ問題や友達へのおもいやりなどをテーマにすえた作品が散見される。作品を読むことで、いじめについて考えさせたい、人を思いやる心の大切さに気づかせたい、といった意図が見えてくる。何もそのようなテーマが悪いというのではない。ただ、そのようなテーマが透けて見える作品であればあるほど、子どもたちはその意図を察知して教師や大人が喜ぶような答えを教室では出してくる。しかし、そうであればあるほど子どもたちの心にそのテーマは届いていくことはない。

2 どうして道徳になるのか?
 
国語の授業が道徳になってしまう原因の一つに、教科内容の曖昧さがある。国語という教科は、何を教えるのかが曖昧なのである。
 小学一年では、ひらがな・カタカナを、そして漢字を教えていく。文字を教えていくという段階は、それほど曖昧ではない。ではその後、何を教えていくのだろうか。
 『スイミー』(レオ・レオニ)という作品がある。仲間をマグロに食べられて一人ぼっちになったスイミーが、新しい仲間を見つけ、協力して大きな魚を追い出すという話である。この作品は、ある教科書では小学2年に掲載され、別の教科書では小学1年に載っている。このように同じ教材が異なる学年で取り上げられることは、珍しいことではない。つまり、『スイミー』を教えること自体が教科内容ではないのである。しかしながら、教科書を用いて教材を読んでいれば、国語の授業をしているような気にはなってしまう。
 平成29年告示の学習指導要領(小学校国語)には、次のように示されている。

 言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1) 日常生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。
(2) 日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を養う。
(3) 言葉がもつよさを認識するとともに,言語感覚を養い,国語の大切さを自覚し,国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う。

 以前の指導要領と比べて、言葉を教えるという観点がだいぶ明確になったとは思うのだが、まだまだ国語科の教科内容が明確になったとまでは言えない。「その特質を理解し適切に使うことができる」とはどうなることなのか。「伝え合う力を高め,思考力や想像力を養う」にはどうすればよいのか。「言葉がもつよさを認識する」とは、「国語の大切さを自覚し,国語を尊重」するとは、どういうことなのか。まだまだ曖昧なところがたくさんある。
 もう一つには、教師が教材を読めていないことにある。「読めていない」と言うと「?」と思われる方もいるかも知れない。しかし、現実はそうなのである。
 教材が読めるとはどういうことかは、これからの中で具体的に述べていくつもりである。字が読めれば、言葉を知っていれば、教材が読めるわけではない。何よりも読み方が分かっていなくてはならないし、読む力がなくてはならない。残念ながら、そのような力を大学の教員養成課程では十分に育てられていないのである。私自身教員養成の仕事に携わってみて、改めてそのことを実感した。教材が読めていないから、道徳になるのである。そして道徳的な中身は、何かを教えたような気に教師をさせるからなおさらに始末が悪いのである。 

3 『一つの花』クライマックスの授業を例に
 
小学4年の教材に『一つの花』(今西祐行)がある。体の弱いお父さんが、妻と娘(ゆみ子)を残して戦争に行くという話である。お父さんが見送りの家族と別れる時、「ゆみ。さあ、一つだけあげよう。一つだけのお花、大事にするんだよう……。」と言ってコスモスを一輪娘に渡す。そして、汽車に乗って行ってしまう。
 この作品のクライマックスのところである。ここで、戦争に行くお父さんの気持ちを問う発問がしばしばなされる。

「お父さんはどんな気持ちでゆみ子に花を渡したのだろうか?」
「お父さんが大事にしてほしかったのはなんだろうか?」

 家族と別れ戦争に行かなくてはならなかったお父さんは、どんなことを思ったのでしょう?という問いの答えは、作品を読み込まなくても答えることができる。家族との別れの状況を想定してみれば、「悲しい気持ちだろうな」「娘に元気に育ってほしい」「お父さんも頑張るから、家族にも頑張って生きてほしい」といった気持ちは想像できる。お父さんが一番大事にしてほしいものの答えも、命・平和・幸福・夢・愛などが出てくるだろう。このような答えから、平和や命の大切さ、お父さんの家族を思う気持ちなどと道徳的にまとめられる。
 しかし、これらの答えは作品を深く読むことから生まれてきたのではない。「戦時下の家族の別れ」という状況からを推測して出てきたものに過ぎない。
 物語における心情を捉える読みは、しばしば人物が置かれた状況での気持ちを推測することに終わる。そうなってしまうのは、ある意味当然のことでもある。心情が語られているのであれば、わざわざ「心情を捉える」意味はない。心情が語られていないからこそ、捉えようとするのである。
 クライマックス前後の箇所を次に引用する。

  お父さんは、プラットホームのはしっぽの、ごみすて場のような所に、わすれられたようにさいていたコスモスの花を見つけたのです。あわてて帰ってきたお父さんの手には、一輪のコスモスの花がありました。
「ゆみ。さあ、一つだけあげよう。一つだけのお花、大事にするんだよう……。」
 ゆみ子は、お父さんに花をもらうと、キャッキャッと足をばたつかせて喜びました。
 お父さんは、それを見てにっこり笑うと、何も言わずに、汽車に乗って行ってしまいました。ゆみ子のにぎっている、一つの花を見つめながら……。

  ここにお父さんの心情は語られていない。なぜコスモスの花を取ってきたのか、それもわざわざ一輪。どうして「何も言わずに」行ってしまったのか。なぜゆみ子やお母さんではなく、「一つの花を見つめながら」なのか。
 状況から気持ちを推測し、「親の子どもに対する愛情」や「平和を願う気持ち」を読んだとしても、それほど意味はない。戦争に行かなくてはならない状況、家族と離れ離れになるときの思い、父親の娘に対する愛情。これらは、作品そのものを深く読まなくても子どもたちは出すことができる。状況や場面を想定できれば、何を教師が求め期待しているかはある程度想定できる。先のお父さんの心情を尋ねる問いに対してならば、『一つの花』を読んでいない人でもある程度答えられる。
 心情の読みは、ともすれば道徳的なものとなっていく。そして道徳的な価値を前に出せば出すほど、作品を読むことから遠ざかっていく。
 「戦争はいけない」「家族を大切に思う気持ち」「親の子どもへの愛情」といったわかりきった答えが横行する教室では、国語の授業に発見や魅力を子どもたちが感じることはなくなってゆく。国語が道徳になっていけばいくほど、授業はつまらないものになる。そして、作品を深く読む力(言葉を読む力)は子どもたちのものとはなっていかない。 

4 読み方を教え、言葉を読む授業を
 心情を捉えることが、往々にして授業の道徳化につながると述べてきた。では、どうしたらよいのか。答えは一つ。作品を読むことである。一語一文に即して、言葉にこだわって読むことを教えるのである。
 国語では読み方を教えることが大事である、と私は考え実践してきた。子どもたちに読み方を教え、それを子どもたち自身が使いこなしていける力をつけていくべきだと主張してきた。子どもたちが読み方を自らのものにしていくことが、子どもたちの読む力を育てることにつながる、そう考えてきた。
 具体的にどうするのか、『一つの花』で考えてみよう。
 何よりもクライマックスのところで大きく変わるのは「一つだけ」の意味である。「一つだけ」という言葉は作品中に17回登場する。その最後の2回がクライマックスで用いられている。そして、これ以降には「一つだけ」という言葉は登場しない。
 お父さんは「一つだけ」という言葉について、以前次のように言っていた。

「この子は、一生、みんなちょうだい、山ほどちょうだいと言って、両手を出すことを知らずにすごすかもしれないね。一つだけのいも、一つだけのにぎり飯、一つだけのかぼちゃのにつけ……。みんな一つだけ。一つだけの喜びさ。いや、喜びなんて、一つだってもらえないかもしれないんだね。いったい、大きくなって、どんな子に育つだろう。」 

 ゆみ子が「一つだけ」と言うことを、お父さんはよいとは思っていない。「一つだけ」をいじましい言葉として否定的に思っている。「みんなちょうだい」「山ほどちょうだい」と言う子になってほしいと思っている。
 17回登場する内の15回目まで「一つだけ」という言葉は、否定的なニュアンスで用いられているのである。だから「一つだけ」と口にするのはお父さんではなく、お母さんである。お父さんは先の引用の箇所をのぞいてはクライマックスまで「一つだけ」を口にしていない。その「一つだけ」をクライマックスではお父さん自らが口にする。 

「ゆみ。さあ、一つだけあげよう。一つだけのお花、大事にするんだよう……。」

  ここでの「一つだけ」は、これ以前とは意味が異なっている。これまでは、いくつかあるもののなかで一つだけという意味で用いられていた。しかしここでは、一つしかないものの意味に用いられている。否定的な意味から肯定的な意味へと変わったのである。
 同じ言葉が、異なる意味で用いられているのである。その違いに着目し、その意味を考えることから言葉を読む力が鍛えられていくのである。
 教える内容が曖昧だと、国語は道徳に傾いていく。道徳の授業をしているつもりはなくとも、道徳的な内容をやっていると、教師はなんとなく安心することがある。しかし、国語科はそのような道徳への傾斜から抜けださなくてはならない。そのためには、何を教えるのか、どのような力をつけるのか、そしてその力は、子どもたちが生きていく上でどのような意味を持つのかを改めて問う必要がある。

 

 

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