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教材を自分で読むことの大切さ

氷山の9割は見えない

 連立方程式が解ければ、連立方程式の解法を教えられるわけではない。足し算ができれば、足し算を上手く教えられるものでもない。教えるためには、教える中身をより深く理解していることが必要である。浅い理解でも正解を出すことは、それほど難しいことではないかもしれない。しかし、教えるためにはより深い理解が必要となる。
 海面から出ている氷山は、氷山全体の10分の1程度だという。氷山の9割は海面下にあって見えないのである。教えることは、海面下の9割があってこそ浮んでいる氷山に似ている。見えない9割-教材や教科内容についての深い理解-があってこそ、興味深く、分かりやすく教えることが可能になる。
 こんなことは、今さら私が言うまでもない、自明のことだと思う。しかし、国語教育においては必ずしも自明のことになっているとは思えないのである。
 国語科は「教材教える」のか「教材で教える」のか、どちらだろうか?
 そう問われたら多くの人が「教材で教える」と答えるのではないだろうか。
 「スイミー」や「ごんぎつね」を教えることが目的でも目標でもない。「スイミー」で、「ごんぎつね」で何を教えるのかが考えられなければいけない。物語・小説では共通教材・定番教材とよばれる各社に共通するものがある。しかし、共通する説明的文章は小・中学校では皆無である。このことは、「教材を教える」のではなく、「教材で教える」ことを端的に物語っている。
 しかし、現実には「教材で教える」ではなく、「教材を教える」授業になっていることが多くないだろうか。

 教えることはむずかしい

 他の教科の場合、教材が変わっても、そこで教える教科内容に変化はない。したがって、分数をどう教えるか、光合成をどう教えるか……と教科内容が理解できていれば、教えるのに大きな困難はない。と少し前までは思っていたのだが、ことはそう簡単ではないと思いはじめた。
 私は、学習支援のボランティアに関わっているのだが、そこで分数が分かっていない子どもにしばしば出会う。たとえば、次のような問題がある。 

えみさんの家から学校までの距離は3.6㎞で、あきらさんの家から学校までの距離より3/5 ㎞遠いそうです。あきらさんの家から学校までは何㎞ですか。 

 分数と小数では計算できないから、どちらかに合わせなくてはならない。そこである子は、3.6を3/6と分数に直して計算しようとした。小数3.6を6分の3という分数に変換したのである。
 方程式の問題がある。 

 3y=2x

  これをyについて解く。

 y=(2/3) x    *分数が上手く表示でので( )に括りました

 このようになるのは、これをお読みの方なら何の問題もないだろう。しかし、ある子どもは次のように計算した。 

 y=2x-3 

 分数は小学2年生で登場し、それ以降は高校まで分数が出てこない計算はほとんどないと言ってもよい。しかし、先ほどの例に示したように分数がどういうものか、中学生になってもその理解がいい加減な生徒は多く存在する。
 話が算数・数学に逸れてしまったが、要するに教科内容が明確だからといって、それを教えることが簡単なわけではないのである。それゆえに、国語科は二重三重に困難を抱えることになる。まず教科内容自体が曖昧である。そして教科の系統性も明確ではない。それらに加えて教材がさまざまに変わる。
 国語は、教科書の改訂のたびに新たな教材が登場する。教材が変わっても教えることが変わらなければ大きな問題とはならないが、国語科の場合そういうわけにはいかない。教材が変わると、前の教材でやっていたことはできなくなる。
 算数や社会・理科では、教科内容が大きく変わることはない。それに対して国語は、かなりの頻度で教材の変更がある。公立の小中学校の教師に、教科書採択の権限はない。地域の教科書採択の決定に従うしかない。それゆえ、違う会社の教科書が採択された場合、教材がガラリと変わり大変な目に遭う。 

教材を自分で読んで、授業を考えているか?

 教師には指導書というものがある。小・中学校では教科書に赤で書き込みが入っている赤本といわれるものもある。これらには、授業でどのような発問をすればよいかがある程度示されている。したがって、指導書にざっと目を通し、赤本を持参して授業を行えば、それなりに授業はできる。しかし、指導書や赤本が常に正しいわけではないし、その教材研究は十分なものでもない。さらにはどこの教室でも使えるように作られているのだから、目の前の子どもの実状にそったものとも限らない。
 だから赤本や指導書を使うべきではない、と言いたいのではない。用いるにしても、教材を自分で読まなくてはいけない。赤本や指導書(あるいはネット上にある指導案や分析なども)の通りに授業しているのでは、子どもの力を伸ばすことはできない。
 なぜなら、教材のどこがよくて、どこに弱さがあるのか、子どもたちはどこに躓くのか、どこに関心を持つのかを教師が考えていないからである。目の前の子どもたちの実情を踏まえていないし、教師の姿勢そのものが受身的である。
 教師が教材を読めていなくては、おざなりな授業しかできない。表面的な、つまりは書かれていることを確認したり(私の先生は「目の検査」といっていた)、勝手に心情を想像させたり、指導書の説明をそのまま述べたりといった授業を、子どもたちが楽しいと思うはずもない。席に座り、教科書を読み、発問に答えることはあっても、一見授業が成立しているように見えたとしても、楽しい国語の授業にはならない。
 なぜなら、自分が読めてない教材を教師が楽しいと思って授業できるはずがないからである。教師が楽しくない授業を子どもたちが楽しいと思えるはずがない。もちろん、教師が楽しいからといって、子どもたちも楽しいと常に思うわけではない。しかし、授業において何よりの前提はその授業を教師が楽しいと思えることである。
 楽しいと思えるようにするために、教材研究があるのだ。教材研究を通して、ここを子どもたちに見つけさせたい、ここに気がついたら面白いと思ってくれるのではないか、この文があるのとないのではどう違うか考えてみたい……と、教師の授業への思いがふくらんでいく。早く授業をやってみたくてたまらなくなる。教材研究は、そういった教師の楽しさをふくらませるものにならなくてはいけない。
 赤本や指導書にべったり寄りかかっていては、その楽しさは生まれない。
 加えて気になることは、授業のスタンダード化である。地域によっては、この教材は何時間で、どう教えるかという授業計画を各学校に示しているところもあると聞く。それが上の方からの押しつけになっていなくても、上の方から示されたものに対する忖度やそれに乗っかれば楽だという教師の安易さも重なり、授業のスタンダード化が進んでいる。赤本や指導書べったりと同じで教師の主体性が弱くなっていくことは間違いない。
 学習指導要領は子どもの「主体性」を伸ばそうと謳っているが、それを育てる教師の主体性はむしろ弱くなっていくばかりではないか。 

教師の一番の仕事は授業!

 そうはいっても、教師の仕事は忙しい。日々の授業をこなし、日々起こる子どものもめ事や事件への対応、加えて保護者対応もあれば校務分掌の仕事もある。さらには学年や全体での打ち合わせや会議。日記や宿題のチェックもある。行事の準備もしなくてはならない。
 どこに教材研究をする時間があるのか。
 その通りだと思う。しかし、その通りであってはいけない。すべての授業の教材研究ができなくても、一日の中で最低1時間でも、教材研究を通して教師が楽しいと思える授業を実現させなくてはいけない。そのために、宿題のチェックをおざなりにしてもいい。サボれるところはサボればいい。手を抜けるところは抜くのである。
 教師の一番の仕事は授業である。授業を通して子どもたちの学力を育て鍛えていくことこそが、何にもまして優先されなくてはならないし、尊重されなくてはならない。
 自分で教材を読めていない限り、自分の授業ではない。自分の授業でなくては、楽しさは生まれない。教師が授業を楽しいと思ってこそ、子どもたちも楽しいと思えるようになる。
 私が「note」にこのような文章を書いているのも、少しでも現場の先生方の手助けになればと思ってのことである。
 教材を自分で読むためにどうすればよいか、自分の力で教材研究を進めていくためにはどうしたらよいのか。それはこれまでも書いてきたし、これからも書いていくつもりである。また具体的な教材で、どう読めばよいのか、どう教えればよいのかなど、困ったことがあればいつでもお知らせいただきたい。私ができる範囲でのお手伝いをさせていただくつもりである。
 最後にもう一度、指導書や赤本べったりではなく、自分で教材を読むことを大切にしてほしい。授業こそ教師の一番の仕事である。そして、それは最も楽しい仕事でなくてはならない。

 

 

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