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『スワンレイクのほとりで』(小手鞠るい)を読む 5 ――主題よみと作品検討
【承前】
5 主題よみ
主題とは、物語の各場面の形象の重なりの中に見出される一貫性・統一性・法則性をもったもののことである。分析的に読みとってきた形象の流れを統合し、そこにあるまとまりを見出すのが、主題を読むということである。ただし、そのまとまりのどこに着目するか、どこに焦点を当てていくか、またどのように解釈するかによって、主題の有り様は変わってくる。形象の一貫性・統一性・法則性という点では客観性を持つが、読者の着目する点や解釈の仕方によっては、主観的な要素をも持つのである。その意味で、主題は客観性と主観性の間に位置するものといえる。したがって、着目する点や解釈によって、二通り、三通りの主題があり得る。
主題を、作者が最も伝えたいこと、作者からのメッセージとする考え方がある。しかし、そう考えると主題は作者に聞かなくてはわからないといったことになりかねない。作者が何を伝えたいかではなく、作品が何を語ろうとしているかと考えることで、読みとり可能となる。
物語の主題を道徳的に読みとろうとする傾向がしばしば見られるが、主題が道徳的である必要はまったくない。道徳のために、わたしたちは物語を読むのではない。道徳的な価値づけは、読む楽しさを半減させかねない。ともすれば、子どもたちは主題を道徳的に読み取ろうとする。それは、これまでの国語教育が物語を道徳的に読みとることを求めてきた結果でもある。
物語を読むこと自体が、楽しいことである。わたしたちは、物語を通して知らない世界と出会ったり、違う人生を体験したり、日常ではできない経験をしたりする。また国語の授業では、物語を読むことを通して、一語一文にこだわり、言葉を深く読むことができるようになっていくことを目指す。そして、物語の工夫や仕掛けの意味がわかっていくことで、物語の魅力もふくらんでいく。主題を読むことは、そのような授業の延長線上に位置づけられる、物語の形象の抽象化を目指す読みの過程といえる。
では、主題はどのようにして読みとっていけばよいのだろうか。
第一に、クライマックスを中心とした作品の形象の変化を読むことである。クライマックスで何が変化したのか、変化はどのように描かれているのかを読みとる。その際に大事なことは、クライマックスの箇所だけで考えるのではなく、それ以前にどのように描かれてきたのかと対応させて変化を考えることである。変化は、それ以前の形象の流れと比較することで鮮明に見えてくる。
第二に、一つ目で読みとったことを終結部の形象と関わらせて考える。終結部ではクライマックスで示された主題が語り直されたり、変奏されたりする。『モチモチの木』は、終結部で「人間、やさしささえあれば」と勇気の大本が「やさしさ」であると語られる。終結部で勇気の質が語られているのである。
第三に、題名は主題と深く関わっていることが多い。一つ目、二つ目で読みとった主題を、題名と照らし合わせて考えることで、より主題が明らかになることがある。『海の命』では、最後に「大魚はこの海の命だと思えた」と題名が登場する。直接には瀬の主のことであるが、それが表している象徴性から主題が見えてくるのである。
主題を読む力とは、形象を総合し、物語を再構成していく力である。分析的に読んできたものを総合し抽象化していく、それが主題を読むことである。それは子どもたちに、まとめ・抽象化していく思考を求めるものである。したがって、主題を読むのは抽象的思考に向かっていく中学年以降でよい。
主題を読む前の段階では、あらすじをまとめていく。あらすじとは、事件の展開を短くまとめたものである。物語の読解のはじめで、場面分けを行い、そこでおおよその物語のすじをとらえる。ただし、この段階ではすじを文章化してまとめることよりも、子どもたちが物語の内容を大づかみすることに重きをおく。〇〇が✕✕して、✕✕して、✕✕して、……△△になったね、とダラダラしたまとめ方でよい。子どもたちがこれから読む物語の展開をおおよそとらえられることが大事なのである。読解の終わりの段階でのあらすじは、より簡潔に、物語全体の内容をまとめることを目指す。事件の骨格をとらえ、できるだけ簡潔にまとめるのである。あらすじをまとめることで、主題が見えてくる。
「スワンレイクのほとりで」のあらすじは、次のようになる。
歌が、アメリカ旅行でグレンと友だちになる話。
最後に、授業で常に主題をまとめる必要はない。中学年では、年に一~二作品で主題を考える授業をすればよいだろう。高学年でも、子どもたちが取り組みやすい作品で行うことを基本とし、授業で扱わない場合は、自主学習などで取り組んでいけばよい。気をつけることは、教師の主題を押しつけないことである。主題よみは、総合化・抽象化の課程であるがゆえにむつかしい作業である。小学校段階では子どもたちから出された意見を受け止めてあげればよい。子どもたちがそのような思考の試みることを大事にしたい。
私は、「スワンレイクのほとり」の主題を以下のように読みとった。
生まれや文化が違い、言葉が不自由な中で、歌とグレンが出会い、友達になる → 異文化の二人の出会いと交流
6 『スワンレイクのほとりで』は、よい教材か?
ここまでの中でも触れてきたのだが、私は「スワンレイクのほとりで」を良い作品と考えていない。教師の教材研究というのは、教師自身がその教材の魅力をつかみ取っていくことでもある。教師が魅力的に感じない作品や文章に、どうして子どもたちが興味や関心を示してくれるだろうか。自分の売っている商品をよいと思えないで、どうやってそれをお客に売り込むことができるだろうか。質の悪いものを良いものといって売れば詐欺である。もちろん教師は商人ではない。教材は商品でもない。しかし、よいと思うからこそ、お客への勧誘も熱を帯びるのではないだろうか。魅力的に感じるからこそ、授業に力を入れて取り組めるのではないだろうか。
私はこれまで教材研究をしてきて、教材自体を否定的にとらえることはあまりなかった。不十分ではあっても、ここは面白い、ここを取り上げたら授業が面白くなりそうだ、というところが見つけられたからである。しかし、この作品は何度読み返しても、魅力を感じとることができなかった。
以下に、その理由を述べる。
第一に、「異文化の二人の出会いと交流」を主題と読みとったのであるが、その中身が描かれていない。「今は、遠くはなれた場所でくらしているけれど、わたしたちは、友達。」と歌は最後に思う。しかし、何をもって歌はそう言うのだろうか。「わたしたちの心の中には、野菜畑の思い出がある。いっしょにながめたスワンレイクの景色も。」というけれど、「わたしたち」という根拠はどこにあるのだろうか。夏休み以降(日本に帰国してから)、グレンと手紙などのやりとりをしたのだろうか。それともそれらが全くない中での半年後なのだろうか。もちろん、歌が思うだけであれば歌の勝手である。しかし、そうであれば歌はかなり自己中になってしまう。
また、少し会っただけで異文化の二人がわかり合い仲良くなるという設定は、安易で道徳的ですらある。二人を隔てている言葉の壁は描かれるが、それ以上でも以下でもない。友達や友情の美しさを描いているように思われるが、その具体的な中身が描かれていない。二人で野菜の名前を教え合ったことと、スワンレイクをながめたことしか実体がないのである。
第二に、どうして半年後なのか、その必然性が弱い。それは、「四年生の一年間をふり返って、いちばん心に残っていること」というテーマを与えられたからだが、そうでなければ思い出していないのだろうか。外部からの刺激によって思い出す程度のものでしかなかったのか。作文を書くことになり、グレンのことを思い出したのだろうか?そうであるとすれば、「わたしたちは、友達」という歌の言葉は軽いものとならざるをえない。もちろん友達という言い方の中には、顔見知り程度の関係から深くつながった関係までさまざまなものがある。歌とグレンの関係がどの程度のものかは明確ではない(描かれていないのだから)が、二人の関係が希薄であるほど「わたしたちは、友達」は、軽い響きしか持ちえない。
第三に、二人が友達になっていく過程に、何の葛藤も障害も描かれていないことである。言い換えれば、作品の中にかげ(マイナス要素)が見られない。かげがあることで、光も際立つ。かげが描かれていないのだから、「わたしたちは、友達」と歌が言っても、そこに説得力がみられない。一緒に数時間を過ごしただけの関係でそれを友達と呼ぶとすれば、そのことが作品を薄っぺらいものにしてしまっている。
第四に、作品が英語への興味付けになってしまっている。5年生から「外国語」という教科として英語を学ぶ。これから英語の学んでいく子どもたちにとって、この作品は英語への興味付けにはなるかもしれない。最後に歌が「もっともっと英語の勉強をして」というあたりには、英語を頑張ろうというメッセージが隠されている。文学作品が道徳的なテーマをもってはいけないとは言わない。しかし、4年生の最後に英語を頑張って勉強しようというメッセージは、道徳的臭の強いものであり、作品の質をグンと落としてしまっている。
第五に、グレンを車いすに乗っている障がい者として描いている問題である。作品中に障がい者を出した意義は認めるが、グレンが障がい者であることの必然性や意味がどこにあるのだろうか。私には、障がい者を登場させた意味が見えてこない。歌とグレンは、野菜畑で植えられている野菜を見て回る。畑であるから、車いすが通りやすいように作られているわけではない。ましてここは、ジョージさんと真琴さんの野菜畑である。とすれば二人は野菜畑の中に入ることなく、周りから遠目に野菜を見て回ったのだろうか。二人がどのように野菜を見て回ったのかは何も語られていない。あたかもグレンが野菜畑で動き回ることに何の障害もないかのように、二人の会話は進行している。加えて、なぜグレンは野菜畑に行きたがったのだろうか、その理由も見えないままである。グレンは野菜が好きで、野菜畑であれば会話に困らないと考えて連れて行ったのかもしれない。もしそうであれば、それを匂わす表現がどこかにほしかったと思う。
ただし、障がい者を特別な困難を抱えた存在ととらえず、普通に描こうとしているという風にも読めなくはない。しかしそうであれば、わざわざ車いすにしたことは無意味にならないか。障がい者を登場させたのであれば、子どもたちにとって障がい者をとらえ直すような観点が加えられていた方がよかったのではないかと考える。
第六に、グレンとの最初の出会いの時に「グレンは、わたしの顔を見つめたまま、だまっている。」と歌は受け止めた。もちろん歌がグレンの心情を語ることはできないわけだが、作品としてみるときグレンが黙っている意味は何なのか。恥ずかしさなのか、言葉の分かりにくさなのか、グレンには何か引っかかりがあったのか、それらはその後においても何も示されていない。
その後に、グレンのあいさつを受けて「今度はわたしがだまってしまった」と歌が黙り込むところが描かれている。お互いに一度ずつ黙り込むことが描かれているわけだが、一人称であるためにグレンの心情は分からない。グレンが黙っていた理由は分からないというのであれば、それはそれで了としなくてはならないが、作品としてはもう少しグレンの心情が見えるように描く方が二人の交流の起伏がわかったのではないだろうか。
最後に、歌もグレンも人物設定に魅力が無い。屈折しているところや弱さがあることで、読者の共感を得やすいのだが、そのようなものが描かれていない。描かれるのは歌がまだ英語を上手く話せないくらいのことである。結果的に、二人が知り合い、交流するというだけの起伏のない物語になっている。そのこと自体を全否定するわけではないが、4年生の作品としては、もう少し物語に起伏がある方が子どもたちは親しみやすいのではないかと考える。