『人生100年時代を軽やかに生きるために~いくつからでも輝き出せる~』後半
◆プロフィール◆
加藤 良子さん 京都府在住 80代 【女性】
大阪で生まれて、両親と弟、妹の5人家族の長女として育つ。小学校3年生の時に、母方の祖母と叔母(母の異父妹)とその子ども(従弟)との同居生活が9年間も続いた。大家族になったことで言いたいことも言えず、両親に迷惑かけないような幼少期を過ごす。23歳のときに父の知り合いの紹介により結婚と同時に夫の両親と同居。長女・長男・次女と3人の子どもを授かる。その後、姑を介護した後に舅の介護も経験し、現在は、夫と長女との3人暮らし。
《インタビュアー:宇崎和雄 研究員 ライティング:宇崎明子 研究員》
■頑張らないと、認めて貰えないと思っていた
父は小さな時に両親を亡くし、母は母で、親に育ててもらえず、二人は「親の愛」を知らずに生きてきました。
お互い寂しい思いをしてきた者同士、家族だけの生活がしたいと思いながらも、母の身内を預かり、遠慮しながら生きてきました。
そして、加藤家の舅姑も、本当は寂しい人生でした。
舅は、「いつも自分が一番偉い!自分の言う通りにしろ!」という感じで、言葉数も多くて文句ばかり言っているように感じ、私にとっては大嫌いな存在でした。
しかし、実は舅はとても苦労をした人でした。長男だったにも関わらず、弟の方が優秀だったからという理由で、14歳で加藤家に養子に出されました。
その後すぐに、過酷な労働条件だと言われた鋳物屋(鋳造業)に丁稚奉公にいきました。
手先が器用で腕の良い職人だったので、その次に勤めた会社でもとても重宝がられました。
でも、社長の跡継ぎが出来ると、結局、辞めさせられる状況になったのです。
普通なら仕事をやめて隠居暮らしの年齢でした。
ですがそこでも持ち前の「なにくそ精神」で頑張った舅。
なんと60歳を過ぎてから、舅は一人で鋳物屋(鋳造業)の会社を立ち上げたんです。
それから90歳近くまで働くような凄い人だったのです。
舅の職人技で鋳物の仏具を扱っていた会社は、その時代のブームと、京都の土地柄にものって、営業しなくても仕事は結構あったのです。
舅は、自分で好きなことを言って、思い通りにする人だと思っていましたが、仕事の上でも不遇な扱いを受けたり、養子に出されて、実家の誰にも頼ることができず、頑張らないと誰からも認めてもらえないと感じていたのだと思います。
■舅と父は同じだった?!
私の父は舅と違って、寡黙で文句らしいことは一切言いません。
ある時、スクールの講義の中で、講師にこんな風に言われたことがありました。
「形は違うように見えるけれども、どちらも苦労して家族の為に頑張り抜いた人達ですよ」
と言われて考えてみました。
すると、父は会社では創業者の一人だけれども、肩書こそありましたが、学歴がなかったことで理不尽な扱いを受けたこと。
そして舅も長男であっても養子に出されたり、会社に後継ぎが出来ると辞めさせられたり、二人とも頑張って働いても理不尽な思いを感じていたように思います。
初めて「ほんとだ!同じだ!」とわかり、もう驚きしかなかったです。
《文句しか言わない舅=寡黙で文句を言わない父》
まさか、この二人の思いに共通点があったなんて考えられませんでした。
そして、講義の後で、自分でも驚いたのですが、
舅のことを、それまで怖くて一度も文句なんて言ったことがなかった私が、
「あのクソじじい!!」
と、笑いながらですが思わず家族に吐き出せた時に、
胸の内にずっと抱えていた思いを、初めて言葉にしてみて自分でもビックリしましたが、気持ちがとても楽になったのです。
そこからなんです。
不思議ですが、嫌いだった舅に対しての思いが一気に変わっていくのがわかったのです。
姑も、私のように自分の旦那さんに、怖くて言いたいことも言えず、何一つ分かってもらえなくてとっても辛かったと思います。
両親を見る目を通して理解が深まっていきました。
自分の育って来た環境、生い立ちがその後の人生にどれだけの影響を与えるのかがよくわかりました。
子どもの頃から家族団欒を望んでやまなかった私。
ところが結婚した先でも、同じようにまた窮屈な思いをしながら家族団欒が叶わなかったこと。
家族一人ひとり、みんなの思いを知ることで見えて来たこと、
それが「寂しさ」と「遠慮」と「我慢」でした。
そして私自身も、加藤家に嫁入りしたときに「もう帰る家はないんだ!」の覚悟で嫁いで来ました。
舅、姑の介護もして看取りもしました。
何があっても我慢するんだ!いつか何処かで分かって貰えると思っていましたが、本当のところは寂しかったのです。
今まで怖くて言い返すことすら出来なかったことや辛かった思いにふれることが出来て、心の中にもっていたモヤモヤした気持ちが、「クソじじい!!」と言っただけなのに、
「スーッと」取れていくのが分かりました。
そして私自身のことですが、
なぜ結婚してすぐに「りょうこ」と呼ばれたのか?
を考えてみました。
今まで家族の為に一生懸命してきましたが、自分の為にはどうだったのか?
ずっと自分のことは後回しにして、考えることもなく、他人から見れば、「あなたは障害物競走のような人生ね!」と言われていたぐらいです。
家族のことばかりを考え、自分が自分の気持ちを大切にせず、蔑ろにしていた。
大事にしていなかったからだ。
今なら笑えますが、本当にそんな人生だったと分かりました。
だから、「よしこ」なのに「りょうこ」と偽りの名前で過ごすことになってしまっていたのだと、理解できました。
生まれてきた氏名を思い出し、自分の気持ちを大切にして生きていきたいと思います。
■夫とコミュニケーションができた!
両親について、夫とこんな会話をしたときに、驚いたことがありました。
それは
私:『私のことを舅や姑さんから一つもかばってくれへんかったね』と言うと、
夫:『わしは親の苦労をずっと見てきてる。せやから、親に反発することがほんまにできへんかった』と言ったのです。
反発できない夫の話を聞いて、
私は、父が大好きで理想でした。尊敬もしていたので、父の言うことは絶対に間違いなんてないし、反発したり文句を言うなんて考えた事もなくて、言い返す気持ちなど一度もなかったのです。考えてみたら、父に反発することが「怖かった」こともあったと思います。そして、苦労する父の姿もずっとみてきました。
私も夫も親に対して
『両親の苦労をみていたから言いたいことを言えず、ずっと我慢してきたんだ』
と気づいたのです。
二人共、まったく同じ思いだったんだ!!……。
夫も私も親に何も言い返すこともなく、我慢をしてきたのだということが初めて一致していたと分かったのです。これは私にとって衝撃的な出来事でした。
そのことを受け取ると、その翌日に、
夫:『京都育ちの自分からしたら、お前の、ものの言い方はキツイんや』と言ったのです。
私:『夫婦は同じです。大阪育ちやから言い方がキツイだけで思いは一緒です』と言うと、
夫:『そうなんや!』と、笑って返事をしてくれました。
夫が初めて受け取ってくれた感じで私も嬉しかったです。
ほんのちょっとした日常の会話ですが、確実に変わっていて、
今までなら、そんなことを言ったことがない人なので大変驚きました。
何も言わない夫に対して、舅・姑から助けてくれなかったと思っていたけれども、
今思うと、
親の方をもって黙っていたのではなく、
ただただ見守ってくれていたという
『温かい夫の愛だった』と知り
夫に対する思い込みが全く別のものに塗り替わりました
■家族再生
これまで障害物競走のような人生でしたが、84歳の現在、毎日が楽しくて、まるで生まれ変わったように元気になりました。
今ではなんでも話しあえる家族になりました。
無表情でまるで鉄仮面のように見えた夫も、よく喋りよく笑うようになり、昔は言い返せませんでしたが、今は何でも夫に言えるようになりました。
夫から『違うよ』と文句を言われても、なんで違うのか分かれば、『あっそうなんや』と思えるし、意地を張ることも無くなりました。
実は息子家族はステップファミリーですが、誰一人として遠慮せずに、言いたいことを言い合えていて、血の繋がりを超えた“家族の絆”を見せてもらっています。
お正月やお盆、ゴールデンウイークなど息子家族と娘家族のみんながリビングで集まると10人になりますが、ワイワイ・ガヤガヤと何時間でも話せています。
話し続けても尽きることがありません。気が付くと8時間ほどたっていた!なんてこともよくあります。
最近では、誰だって人生いつからでもやり直せる!という人生の第二ステージ(シニア世代)を応援する「ピンクベレー協会JAPAN」※にも夫婦で入って活動しています。
この年齢になって、沢山の仲間と共に自分の言いたいことが言えて、笑いあうことが出来て、たまに泊まりで出掛けていくことが出来て、ZOOMでミーティングにも参加して楽しんでいます。
今までの人生の中で、まったく考えられないようなことばかりをさせてもらっています。
ピンクベレー協会のイベントで、ピンクの帽子を被って出た姿を見た方から『活力と輝きをもらいました』と言って頂けたことがとても嬉しかったです。
【夫の活動として】
『健康生きがいづくりアドバイザー」という資格を取り、元気なお年寄り(私自身もそうですが)をいかに認知症にかからず、健康寿命を維持するかを地域社会と共に考え、明るい社会づくりの一助として微力ながら力を尽くしてゆきたいと念願しつつ、体力、知力、気力を充実させ、残された余生を楽しみたいと思っています。』
と言っていた夫は、昨年からは、氏神様の神社でセミナーをプロデュースし、司会を担当して友人、知り合いをお誘いして3月には2回目のセミナーを開催します。
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※ピンクベレー協会JAPAN
元気なシニアとシニアを、応援してくださる皆さまと《自分を幸せにする!》
ということを基本に社会課題などをどう越えていくのかを体験談など発表したり活動しています。
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■言いたい事を言えなくて悩んでいる方へ
この歳になって、まさかこんなにも人生が変わるとは思いもしませんでした。ミロステクノロジーを学んだお陰だと思っています。
人生、何歳になってもリセットできることを身をもって体験させてもらいました。
今までは私の味方になってくれることもなくて、
『私のこといじめてはる?!』とすぐに結論を出していました。
ですが今は、
相手がどういう意味で言っているのかを考えられるようになりました。
結婚生活も長くなると
『何も言わなくても分かる』などと言われますが、それは全く違います。
今までは波風たてずに過ごしていましたが話さないと相手には通じません。
言うことを言った上で、お互いがどんな思いがそこに潜んでいるのかを知ることが出来る『叡智』を私達は学んだのです。
・自分の思いを置き去りにしていたこと
・両親の「苦労」を見てきたから何も言えなかったなど
相手の思いを知り、寄り添う気持ちがとっても嬉しいのです。
こうして今までの人生を振り返って見ることが出来た私にとって、
「軽やかに生きる!!」ことを感じながら生きれていることが最高です。
インタビューを終えて、私が今言えることは、
家族・夫婦関係を良くしたいとミロステクノロジーを学びましたが、
両親を紐解いたことで、舅姑に対する絶対に許せないと思っていた憎しみが癒され、気が付いたら家族関係も夫婦関係も全く変わっていました。
今では、私達夫婦は何でも話すことが出来るだけでなく、分かり合えるのです。
この年齢になって、夫婦共々、お互いの活動を通して沢山の友人や仲間ができて、
望んでやまなかった本当のコミュニケーションが出来ることが、何よりも嬉しくて毎日が楽しくて仕方ありません。
【編集後記】
人生100年時代と言われるようになりました。
けれども、過去を振り返って後悔しても、未来に不安を感じても「どうしようもない」と折り合いをつけて、悪いことが起きないように回避するのが人生なのではないでしょうか。
今回、ご紹介した良子さんも、苦労して育ててくれて、嫁がせてくれた両親を思うと離婚は考えられないと、自分の心に折り合いをつけて、50年以上にわたって「誰にも分ってもらえない」と窮屈な結婚生活を送られてきました。
ですが、ミロステクノロジーに出会ったことで、なぜこの人生を送ってきたのかが紐解けて、何でも話せて分かり合える家族の中心で、「毎日が楽しい!」と仰る人生に180度人生が変わってしまいました。
今回の人生のガイドブックが、年齢や置かれている状況が違っていても、「誰にも分ってもらえない」と諦めた人生を送られてきた方にとって希望の光になることを願ってやみません。
《ライター:宇崎 明子 研究員 》
令和3年の厚生労働省の推計では、人口の約3人に1人が65歳以上となり、人生100年時代と言われる超高齢社会を迎えています。
そういった背景から、全ての人に活躍の場をつくるために、教育・雇用・介護の改革が進められていますが、「今更人生はやり直せない」と思っている方が多いのではないでしょうか。
その中で、ミロステクノロジーを理解されたことで、窮屈な大家族の中で体験してきた嫁舅姑問題をリセットし、何でも話し合えて、お互いの役割を補い合える姿に変容した大家族の中心で、毎日が楽しいと話される加藤良子さんの姿は、活き活きとしたエネルギーに満ちていて、「人生何歳からでもやり直せる」ことを体験を持って示されている実証例だと感じています。
ミロステクノロジーが浸透していくことで、第2、第3の人生を歩むことは当たり前になるような全く新しい価値観で生きられる、無限の可能性を感じてワクワクする人生100年時代の到来を実感させていただきました。
《インタビュアー:宇崎 和雄 研究員 》
(株)ミロス・インスティチュート
https://www.mirossinstitute.co.jp/
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