死について
なんかこのテーマついて書くのは気がひけますよね。
思えば私は生きることについてばかり書いてましたが、死については書いてこなかったです。
死について書くに至ったのは、書く資格みたいなものを得たと感じたから?
来月心房細動のカテーテルアブレーションを受けることにして、まぁ大袈裟なんだけど、少しだけ死をリアリティをもって考えるに至って、書いても怒られないかな、という安心感を得たのかもしれない。
考えてみるとおかしなことです。誰でも明日死ぬかもしれないのに、なんかこう死について語ることはタブー視されている。私だけなのかな?
日本には、「縁起でもないことを言うな」という概念があるように、死や不幸を口に出すことを嫌う風土がある。このルーツはよくわからないだけど、多分上下関係が起因していて、そんなことを想像したくもないお殿様が言い出したことなんでしょう。でもそれってより死の可能性が高い下々のものにとって、上からそんなこと言われるなんてアンフェアなものです。
だから私はちょっとこの病気になって、ある意味良かったというか、ちょっと現実に戻ることができたと思っています。縁起でもないことを考えることは、生き物として重要なことです。縁起でもないことを考えすぎると疲れちゃいますけど、全く考えないってのはダメなんですよね。
黒澤明の「生きる」をよく引用しますけど、死を自覚して、自分の置かれた環境を自覚して、何ができるかを考えることが、第二の誕生なのでしょう。ハッピーバースデー。
少し話は変わって、ちょっと実験をしてみました。
周りの甘えたことを言っている人に対して、「私なんて来月心臓に穴開けるんですよ!」って言ってみたりしてるんですが、意外とあんまり効果がない笑
多分、え!かわいそう!で思考が止まっている。だからあんまり、死というものに思ったほどの価値はないんですよね。逆説的には、私という存在は他者にとって思ってるほどの価値はない。
そりゃ万が一死んでしまったら家族や同僚に迷惑はかけるし、どんよりさせてしまうと思うんだけど、でも多分、思っているほどじゃない。
思っているほどというのは、全てが崩壊するほどなんかじゃ全然ない。だから、多分そんなに心配しなくてもいいんでしょうね。(というか、毎日起こり得ることだから、毎日心配すべきだということ。)
だからなんというか、他人にとっての自分の死というものをあんまり特別視しない方がいい。自分にとっては特別視するべきだけど。ということになるのかもしれません。
例えば恨みを抱えて自死したとしても、意外と効かないですよね多分。だからこそ、お化けみたいな神がかり的な発想が生まれてくるわけで。本当、気にしない人は気にしないもんです。だから少なくとも、攻撃的な意味合いで自分で命を断つ人は、減って欲しいなと思います。
さて話は元に戻って、死を現実的に考えるということは、自らの存在の時間的な有限性を認識するということだと思います。
あと、「生きる」を思い出すと、彼は置かれた環境でやれること、やり残したことがないか、という発想で考えて(ハッピーバースデートゥユーが流れながら)行動を取り始めます。
これはプロジェクトマネジメントに通じる要素があると思いました。リソースを正確に把握することで行動が生まれる。坂口恭平的に言うと「段取り」です。それに即して考えると、死というものはただの締切・納期なのかもしれない。
たまにどうしようもない仕事だと、納期が完成を定義する的な、「あーもうどうしようもないわ、今回は失敗。早く納期来ねーかなー」みたいな感情になったりしますが、人生というプロジェクトにおいてそうはなりたくないものですね。
なんだやっぱり生きることについてになってしまった。つまり、死というものは生の対比概念ではなく、生きることについての締切でしかない、ということなのかもしれません。