やめることについて

今の仕事はスタッフ系と呼ばれる仕事なんですが、よく心無い人たちから「金の無駄だ〜」とか「費用対効果が〜」と言われる立場なんですけど、まぁそう言いたくなる気持ちもわからなくはありません

最近個人事業主見習いをしていて改めて思うのは、組織って大きくなればなるほど、ゲインも大きくなるし、その分内部向けのコストも大きくなるんだなぁ、って思うんですよね。労働組合はいちばんわかりやすくて、組織が小さかったり、大きかったとしても経営者が聖人なら不要な機能なんです。でもそんなことはないから必要になってくる。

これは生物の進化を考えると想像しやすくて、多細胞生物になると生き残りやすくなる一方でいろいろ複雑な機関を作らなければいけなくなる。そして一見「機能しているように見えない」機関も出てくるわけです。でもこの「機能しているように見えない」機関を迂闊に除去するとえらいことになる。

ブラックジャックで「農家の四男坊だの虫垂だのは無闇に切ればいいってもんじゃない」的なセリフがありますが、虫垂とかも一見もう人類には必要のない機関だと思われてたりしますが、腸内フローラの維持のためには意外と重要なんだよ、というのを大学の授業で習った覚えがあります。そういうイメージです。
もう一個例えばをすると、例えば飛行機の油圧系は当然一系統だけじゃないでしょうが、バックアップの油圧系をコスト削減でなくしちゃうことはしないですよね。これも似ています。

そんななか私が嫌いなコンテクストでの「生産性」の文脈で、費用対効果を評価できない機関を攻撃する人たちに対しての苛立ちを感じるんです。組織は複雑なんだから、何かをやめる時は(始めるときもだけど)相当な覚悟をしないといけない。前に書いた、お寿司やさんの例もそうなんですが、要するに原因と結果の因果関係が複雑なんだから、一つの因果関係だけを見てわかったようなことを言うなということです。

これは少し信仰心にも近いものがあるんですが、複雑性への畏怖というのが失われつつあるように感じるんです。科学的な還元主義がもたらした結果なのか、インスタントな教育カリキュラムのせいなのか、ニセDXのせいなのか、よくわからないんですが、そういう視点をもつ人に対峙すると、ああめんどくせえなあ、学がねえなこいつってなってしまいます。

「そんなこと言ってたら何もやめられないじゃん、どんどんやること増えて行くじゃん」って話になるんですが、そうなんですよね。これってどうしたらいいんですかね。一つの可能性としては、やめることにも、始めることと一緒くらいの実験が必要になるのではないか、ということです。やめることによるリスクを織り込んでおく、ということかもしれません。いずれにしろ、複雑性に対して謙虚になることなんだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?