有名になるということ
人の心にはいろいろ、その人を縛る鎖というものがあると思いますが
私の心を縛る鎖のひとつに、「有名になることへの抵抗」みたいなものがあるんです。
多分私はもともと目立ちたがり屋、16 personalitiesでいうとエンターテイナーなのですが、反面「出る杭」になることへの忌避意識があるんです。ステージには立ちたいんだけど、その中心には立ちたくない。
それは、ルサンチマンや慎ましさ(と見せかけた奴隷道徳)の働きもあるんですが、
もう一つは「恐怖」なんだと思います。そのルーツは吉本隆明で、彼のエッセイで「有名になるなんてのは、おっかないことだ」といった言説があるんです。
名前というのは不思議な力をもっていて、有名になるってことはそれがコントロールできなくなるリスクもある。だから「有名になること」を目的に生きるってのは危ないんだぞ、っていう主張だと私は理解しています。
その主張はその通りで、承認欲求モンスターになったり、炎上したりと、やっぱり有名になること自体を目的にしていると、あんまり幸せになるビジョンはないんですよね。
でも最近思い始めているのは、手段としての「有名さ」は結構大事で、なんなら今の世の中、これをやらないとヤバいんじゃないか、という整理です。
有名になること、チヤホヤされることを目的にせずに、自分の目的や、なんなら生存のために自分の名前をマネジメントもしくはマーケティングする必要が高まっているのではないか、という仮説です。
生存を目的にするのと志の成就を目的にするのは紙一重…というか切り離せないような気もするのですが、
のほほんと謙虚に慎ましく生きていることが、なんだか許されないようになってきたのかなと思うのです。
いや、というかもしかするとこの構造は昔からあんまり変わっていなくって、成功している人は自分や自分の一族(苗字)のマネジメントとマーケティングが上手い。
私も決して下手な方ではないんだと思うんですが、多分マネジメントの領域を出ていなくて、マーケティングまでしないといけないのかもしれません。
こういうことを考えるようになったきっかけは、ライフシフト的な長期レンジのキャリア観を考えるようになったからで、私の世代の定年後自営業しないといけなくなる可能性を真剣に考えるようになってきたからでした。
多分これまでの時代は自分の名前をマネジメントしていればよかった。そうすれば社会システムが生存を保証してくれた。しかし長寿命化によって社会システムが限界を迎えるなかで、個人は自分の名前をマーケティングする必要が出てきている…iDeCoみたいなものかも。
そこでさらに大切なのは、個人が個人の名前をマネジメントしながら、社会システムに関心を持ち続けること。この両立ができるのがよい大人であって、私もそういうふうになりたいと思うんです。