困ることについて

前から悩んでいる、やる気スイッチの話。
どうしたら他人のやる気スイッチを入れられるか、もしくは、自分のやる気スイッチを押すことができるか。

今日セミナーを聞いていて、割とシンプルなことに気づいた。「困らせればいいんだ」
これはもうイヴモリュー先生も同じことを言っていて、「協力しあわざるをえない状況を作るんだ。二つ目のテレビは与えるな」って言ってる。
人や組織を成長させるには、困らせることが重要なのかもしれない。

困らせる、っていうと抽象的だし、ちょっと意地悪だから、もう少し具体的にしようとすると、無意識の反応を起こすストレスを与えること、なのかもしれない。
例えば、雪の下のキャベツを埋めると、凍結したくないから糖度が増す。こういう逆算的な力のかけ方が重要なのではないか。

それをやろうとすると、起こしたい結果をシンプルにするべきなのかも。シンプルじゃないと、逆算ができないから。「おいしいキャベツを作りたい」じゃあだめで、「糖度が高いキャベツをつくりたい」にしないとダメなわけだ。ありたい姿を理想と具体で設定するべきなのだ。

というのは、一つの基本的なやり方なんでしょう。私があんまり好きじゃない、人を操るようですきじゃないやり方。でもこうせざるを得ないのかなあ。キャベツやトマトにするんだったら心が傷まないから、多分意地を張っているだけかもしれない。

なんでこういう忌避意識を覚えるんだろう。人を操りたくない。それを卑怯な行いだと考える。説得してそうさせたい、と思ってしまう。この忌避意識のルーツは謎だ。

理性を上にみているからなのかもしれない。今日、健康診断で腱反射を診断したのだが、そういう…狙ったように起こすことは、腱反射みたいなもので、理性的じゃない。本能には理性に劣るのではないか、という忌避意識…

そもそも宗教はたくさんの人の心を救ってきたんだろうが、その中には嘘もある。仏教でいうと方便。これにはあまり忌避意識は感じない。だから、志が真善美に叶っていれば、手段は選ばなくていいのか?そんなことがあるのだろうか…

一旦、「困り」でやる気スイッチを入れるのは置いておいて、もう一つのスイッチの入れ方は「好奇心」。好奇心はどうやって起こせばいい?

「困り」理論を応用するなら、「退屈」にすれば「好奇心」は沸くのではないか。でもこれはあんまり、必ずしもじゃない気がする。
「退屈」は「暇つぶし」を呼ぶから、「好奇心」を必ずしも呼ばない。「好奇心」を生じさせるには、なにか違うファクターが必要な気がする。

よく言われるのは、「セキュアベース」。セキュアベースがあると好奇心が発生する。でも必要条件だけど十分条件じゃない気がする。バンジージャンプを飛ぶためには、(私は絶対にいやだが)ベルトがしっかりつながっているというセキュアベースは必要だけど、一歩踏み出す動機にはならない。どうして人はあバンジージャンプを飛べるのだろうか?

一つは、評価されたいから。バズりたいから。これはありえる。退屈だからってのもありえる。でも決めてがよくわからない。

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