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(短編小説)オセロを君と

この短編は約3,000字です

 入浴後にお風呂を洗い終えてリビングに戻ると、ふんわりとコーヒーの香りが漂った。愛用しているコーヒーメーカーが抽出を始めたようで、しゅわしゅわという蒸気の音が心地よい。
「何読んでるの?」
 香菜さんがソファでなにか読んでいるようだったので、声をかけながら背中から覗き込む。まだ濡れた髪はタオルでぐるぐる巻かれていて巻貝の帽子を被っているようだった。
「これ」
 言いながら香菜さんが向けてきた表紙は、何年か前に映画になっていた作品の原作本だった。背表紙の片隅には図書館の蔵書を示すバーコードがある。
「やっと回ってきたのよ、順番」
「面白い? 後で僕も読もうかな」
 映画は見ていなかったけど、ヒューマンドラマ系の話で評判は良さそうだったので気にはなっていたのだ。
「どうぞどうぞ。130人も待ったのよ。パパも堪能して」
 読書に戻る香菜さんだけど、話しかけても嫌そうではなかったので、その背中に続けて声をかける。
「佑樹は?」
 普段はソファに陣取って、テレビを見たり、タブレットでなにやら絵を描いていたりする佑樹が今日は姿が見えなかった。
「明日は成人式だから、早く寝るのかな」
「まさか。部屋で絵を描いているんじゃない? 流石にこんな時間じゃ寝ないでしょ」
 時計を見ると、二十二時を回ったところだった。そりゃそうか。今年二十歳になる佑樹だが、別に明日の行事は区切りではあるのかもしれないが、一大イベントというわけではない。
 コポコポッっとコーヒーメーカーが音を立てて、出来上がりを知らせてくる。
「コーヒー入れるね」
 キッチンに行くと、マグカップは二つ出してあった。メーカーにセットされたコーヒーも二人前の分量だ。なんとなく頭に浮かんだCMソングを適当に口ずさみながらスイッチを切って、コーヒーを等分する。僕も香菜さんもブラックなので注ぐだけで簡単だ。
 デキャンタは後で洗おうと、とりあえずさっと水でゆすぐ。
「はい、どうぞ」
 ソファのサイドテーブルにマグカップを置く。
「ありがと」
 僕も隣に座って、まだ熱いコーヒーを一口含む。炭の含み香と苦味が心地よい。よし、と用意してたものを取り出した。
「ねえ、香菜さん」
「ん?」 
 僕が取り出したものを見て、香菜さんが怪訝そうな表情を隠そうともしない。
「何よ、パパ」
 サイドテーブルに置いたもの。それはオセロだった。
 確か佑樹が小学校の頃に買って、一時期遊んだものだ。最初はなんとなく勝つのは僕だったけれど、いつの間にか佑樹に勝てなくなり、飽きられた。オセロというか、多分僕が。けれども「よし、パパに勝った!」という言葉は耳に残っている。
「久しぶりにやってみたくなって。ホントは佑樹とやろうかと思ってたんだけど」
「ほう、代役と言うことね」
 いいでしょう、と香菜さんも楽しそうに笑った。図書館で借りた本は栞紐を挟んでソファの脇に。マグネット式の折盤を広げて、四つ駒を白黒で交互にして中央に配置する。
「どっちが先にする」
 オセロは先手後手でどちらも互角とは言われている。ただしそれは熟達した者同士の話だ。初心者レベルの話では──。
「パパのことだから練習してきてるでしょ。最初は私が白にするわ」
 若干白のほうが勝ちやすいとされている。まあ、スマホのアプリで少し練習したのはご明察だった。読まれてるなぁ。
「よし、ではお願いします」
 パチリと黒い駒を置いて白い駒を返す。パチリ、パチリと互いに様子を見るように無言で打ち合う。
「確か、隅を取るのがいいのよね」
「そうそう」
 パチリと駒を置き、挟んだ駒をひっくり返していく。アプリでやるのとは違って少しひんやりとしたマグネットの駒の感触が楽しい。盤面が黒っぽくなっていくのも。ちらりと香菜さんを見ると、けっこう真剣な表情で盤を見つめていた。
「佑樹、もう二十歳になるんだね」
「何よ、そんな話がしたかったの?」
 お互いに視線は盤面に向けたまま。僕はなんとなく改まった話に照れくさくて。だけど、香菜さんはどうなのかな。オセロに集中してるから、ではないと思う。
「なんか、怒涛のように過ぎたというか。流石にこの数年はあまり相手にしてもらえないけど」
 中学生でタブレットを欲しがったあたりから、よく絵を描いている佑樹。最近ではパソコンでもなにやら描いているようで、時間を忘れるように夢中になっている。彼がリビングで絵を描いているときに手元を見せてもらったけど、拡大縮小したり、回転したり、目まぐるしく動く指先が魔法のようで感心した。できあがった自分の似顔絵を見て、いろんな感動を佑樹からもらっていると気付かされた。あのときの絵は僕のスマホの壁紙にして大事にしている。親ばかと言われようとも。
「熱中できるものもあるし、健康に過ごせてるのでなによりよ」
「そうだね」
 さて、そう言ってる間に盤面は進む。隅を取られないように注意していたはずなのに、置くところがなくなって、いつの間にか隅を取られていく。
「ぬ……、ぬぬぬぬ」
 気がつくと盤面ははっきりと白が多く、ちゃんと数えるまでもなく僕の負けだった。
「よっし」
 ガッツポーズをして、香菜さんはコーヒーを飲んだ。僕も少しぬるくなったコーヒーを流し込む。
「もう一回お願い」
「今度はパパが白ね」
 負けたのだから、異論はない。練習までしたのに悔しいところだが、ここで挽回するしかない。気を取り直して、駒を初期配置にセット。
『お願いします』
 細心の注意を払いながら盤面を進めるが、やはり先程と同じようにいつの間にか劣勢に立たされていく。香菜さんが置く駒の音はパチリと軽やかに聞こえてくる。
 結局2戦目は負け。内容がもう完封に近く、もはや勝てる気がしなかった。それでもとチャレンジして、その後数回もきっちり負けて、惜しいところまでもいかなかった。
「なんでそんなに強いのさ」
「いや、パパが弱いんじゃないの? 最後にやったのはいつか忘れたけど、わたしも佑樹にはもう勝てないわよ」 
 アプリで練習してても自分が強いとは思わなかったが、ここまで差がつくと何も言い返せない。というか。
「香菜さん、佑樹とオセロしてたっけ?  たいてい僕と佑樹でしかしてなかったよね」
 休みの日に佑樹と遊ぶのは僕の方で、香菜さんはニコニコと見てた印象が強い。でも、今の口ぶりだと、結構佑樹と対局してるっぽいではないか。
「わたしがどれだけ佑樹と一緒に過ごしてると思ってるのよ。キャッチボールとかもしたことあるわよ」
 結婚して佑樹が産まれて二十年。どうやらまだまだ僕には物事の一面しか捉えられていなかったようだ。
「それは、なんというか。いつもありがとうございます」
 考えてみれば、いくら休日にしっかり佑樹と遊んでいても、平日に仕事から帰るまではずっと香菜さんが相手をしてたのだ。大きくなるに連れて、佑樹が自分の時間を持つことが多くなっていったけれど、それでも例えば夕食は彼女たちの時間だ。仕事に育児にと手を抜いたつもりはなかったけど、恥じ入るばかりだった。
「まぁ、聡くん・・・もいつもありがとう」
「え?」
 不意に言われる。
「なにかプレゼント用意してるんでしょ?」
「あ、ああ。ベタだけど時計を……、いやそこじゃなくて聡って」
「それに、仕事に子育てに、いろいろ頑張ってくれてありがとう、パパ・・。こんなときじゃなくちゃ恥ずかしくて言えないしね」
「いや、だからそこじゃなくって……」
 いたずらっぽい笑みで香菜さんは笑った。
 そうだよね、敵わないのはオセロだけではなかったよ。

 了

 

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