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(短編小説)「開演!」 1,200字
館内に本ベルが鳴り響くその舞台袖では円陣が組まれていた。間もなく、一美の所属しているアマチュア弦楽合奏団のコンサートが始まろうとしていた。
(じゃあみんな、行くよ! 楽しんで演奏しよう!)
(オー!)
声量を落としながらも、コンサートマスターの宇都美が中央で重ねた手を勢いよく跳ね上げ、皆もそれに続く。本番直前の緊張はやるぞ、という気合に取って代わった。
舞台に足を踏み入れると、想像よりも足音がドタドタと大きく響いて驚いた。暗く照明を落とされた客席。この中のどこかに広樹くんと菜乃がいるはずだけど、見つけられる気がしないな。そんなことを考えながら一美はセカンドヴァイオリンの3プル――舞台中央から少し後ろに下がったあたり――の椅子に浅く腰掛けた。
ホール全体がまだ少し話し声などでざわざわとした中、ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、そしてコントラバスと、それぞれの楽器を手に演奏者が着席する。タキシード姿の宇都美が姿を見せると、ざわざわとした様子は探るような拍手に差し替わっていった。
宇都美が指揮台に一番近い席でヴァイオリンを緩やかに構えて伸びやかなロングトーンを響かせると、今度は拍手が止み、それぞれの楽器が一斉にAの音を響かせる。
一美はこの開演直前のチューニングの響きが大好きだった。低弦から順に和音を響かせながら音程を合わせていく。若干の微調整は行うものの、実際には舞台袖でほぼ調弦は済んでいるので儀式にも近い。まるでそう、今から始まるコンサートのファンファーレのように。
緊張と不安と期待。舞台の上という日常と少し切り離された空間で、弦の残響に包まれながら気持ちが盛り上がっていく。
指揮者の鴨川が登場し、今日一番の拍手がホール内に鳴り響いた。指揮台に向かう鴨川が両手をさっと振ると団員たちが一斉に立ち上がった。指揮者だけが軽くあたまを下げると、一層拍手が大きくなる。その拍手も鴨川が観客に背を向け、団員たちが再び座ると、静寂に打って変わった。
さぁ、いよいよだ。一美は譜面台に置いた楽譜をめくり、最初の曲に備える。左端の余白に走り書きした「美しく!」という言葉が目に留まった。
――最初の和音はとにかく美しくお願い。それでもっと、こう、ホールの二階席に届ける感じで。
このメモを書いたとき、確か鴨川先生はそんな風に言っていた。不思議なもので、心でそう意識するだけでも身体の動きが変わって音に影響するのだ。
鴨川の両手がさっと上がり、一美はヴァイオリンを構えてくっと息を止める。演奏者すべてが同じように各々の楽器を構えた。
鴨川は両手を掲げたままで演者達を、そして宇都美を見て微笑んだ。
いよいよだ。指揮者の動きに注目する。
鴨川の右手の指揮棒がふわりと浮き上がるようにひらめいて、一美たちは息を鋭く吸い込んだ。
次の瞬間、振り下ろされた指揮棒に合わせて美しく、華やかな重音がホールに鳴り響いた。
了