最善の一手(囲碁小説 短編1300字)
鮎原《あゆはら》三段には三分以内にやらなければならないことがあった。
三分だ、ここで使うのは三分まで。そう鮎原は心に決めて右手に持った扇子の持ち手をギュッと握りしめた。手のひらに跡が残るほどの力だったが一向に気にした様子はなく、その間も鋭い視線は盤上を睨みつけ、最善の一手を探し続けていた。
大部屋の対局室では少しずつ間隔を空けて、複数の対局が同時に行われていた。その一角で鮎原は大迫《おおさこ》七段と碁盤を挟んで向かい合っていた。盤上では黒石と白石が捻り合い、複雑な模様を描き出している。その傍らでは、記録係がノートパソコンで着手を記録しながら残り時間を確認していた。双方にとって大事な対局となる棋聖戦Cリーグの一局は終盤に差し掛かろうかという所だった。
黒番の鮎原三段の残り時間は五分、白番の大迫七段はまだ三十分程度残していた。規定通りに残り五分から鮎原に対して、記録係の秒読みが始まっていた。
囲碁の秒読みでは、六十秒以内に着手すれば、秒は切り捨てとなる。今は残り五分のため、この一分の間に着手を行えば、また残り五分として秒読みが行われるのだ。
「鮎原三段、のこり四分です」
時間が刻々と過ぎていく中、鮎原は必死に頭の中で候補手を絞りながら数手先の展開を読んでいく。自分の打ちたい手を三手ほど選んでは、相手の最善手を幾つか挙げる。そしてまたその先の応手を頭の中にある碁盤に何度も並べては崩す作業を黙々と繰り返していた。
なにも劇的な神の一手を探しているのではない。
相手は常に最善の手を選んでくるだろう。その少し、わずか髪の毛一筋だけでも、相手よりも良い手を選ぶのだ。
「五十秒……、鮎原三段、のこり三分です」
鮎原が最初に決めていた、ここで使える時間はあと一分となった。ここから一分以内に着手すれば、また三分残して対局は続く。
延々と最善を追い求めているが、この一手で勝敗が決まるわけでは無い。まだ一時間以上は戦いが続くだろう。考慮時間が必要になる局面はこの後必ず訪れる。鮎原はそのときのためにも、できれば三分は残しておきたいと思っていたのだ。
「三十秒」
鮎原は扇子を握った手を緩めた。力を入れすぎて白くなった右手から、左手に扇子を持ち替える。
鮎原は何度も何度も頭の中に描いた局面図を確認し、ついに右手が碁笥の中の黒石を掴んだ。そして最善だと判じた地点へ──。
「──ッ」
まさに着手をしようかという所で鮎原は動きを止め、黒石を碁笥に戻した。
「鮎原三段、のこり二分です」
鮎原が最初に決めた三分は過ぎた。
いかにプロ棋士といえども、このあとを僅かな残り時間で戦うのは大きなリスクだ。大事な局面で「時間が足りなかった」ということになるやも知れない。しかし鮎原は、残り時間を惜しんで、やや妥協した手を打つのが我慢ならなかったのだ。
鮎原は目を閉じると、大きく息を吸い込んで胸を大きく膨らませた。体中に酸素を行き渡らせるように──。
そして最善の、今考え得る最良の一手をひたすらに追い求め、また深い思考の底へと潜っていく。
鮎原が黒石を碁盤に打った時には、時間は残り一分になっていた。しかしそんなことを気に留めるのも惜しいと、盤上を見つめる瞳に力を込めるのだった。
了
他にもあるよ、囲碁の小説